《》雪舟と長谷川等伯《》
春酣の相国寺 |
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相国寺法堂(はっとう)正面
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相国寺法堂東側
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京都国立博物舘 筆者
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京都博物館全景
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大本山相国寺総門
(京都) |
相国寺(方丈北側の庭園)
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今回、京都国立博物館で開催された「雪舟展」を見るにあたり、僕は少なからぬ疑問を抱いていた。宮島新一氏(京都国立博物館企画室)が図録の冒頭に述べているように、雪舟の名声は二十一世紀になっても維持できるのだろうか。世界から見た雪舟の評価は。また、日本人中国美術研究者が「いつまでたっても中国美術が日本美術の母体という図式を塗り替えることはできず、且日本の水墨画に見るべきものはない」と言っている言葉の真意は何処に由来するのか、さまざまな疑問と期待を胸に、咲きいそぐ桜の花が葉桜に移ろうまさに春、酣の一日心ゆくまで鑑賞することにした。 備中国(岡山県総社市)に生れた雪舟(応永27年西暦1420年)は禅僧となるべく京に上り東福寺の修業を経たのち相国寺に入ったらしい。らしいという曖昧な表現は、この時期における雪舟の行動についての確かな歴史的資料ついては判然としない部分が多々ある。然し山口に下向する三十代半ば頃まで、彼は京都の空気を存分に吸い込んだと思われる。とりわけ、厳格な禅風をもって鳴る相国寺の春林周藤に師事したことや、同じ相国寺にあって当代随一の譽高い画家・周文の手解きを受けたことは、のち雪舟の人格形成や、画風形成に極めて大きな意味を持つものであったといえる。彼の絵や、雪舟が画系の祖と仰いだ如拙の絵、雪舟とほぼ同世代の京都画壇のライバル達の作品は、図録を参考に折にふれ写真で紹介したいと思う。
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