瞋恚の炎  
長治と淡河弾正定範

法界寺(三木別所町)
雲龍寺(上の丸)
藤原惺窩像(令泉家館跡)
  ヤブツバキ(令泉家舘跡)
別所長治辞世の句碑(三木城跡)
春浅き二十四万石の夢のあと (一筌
長治夫妻の首塚(雲龍寺)
長治をしのぶ首塚桜つい (一鵠)
 
 


瞋恚の炎(ほむら)
                                       
                                                  文:長谷川

淙々と美嚢川の流れの瀬音は川岸の岩々に谺し月明かりのなかで白い天地を占め別所小三郎長治の枳棘の決断を促した。徹底抗戦か降伏か。食料、物資の兵站を断たれた城内は、痩せ細った牛馬をも食らう城兵が犇めいていた。もはや一刻の猶予も許されない。
今は往時を偲ぶ便もないが、渺茫と緑叢の繁る川面から臨む三木城天守閣は遥か天空に聳え、崢エ(そうこう)たる帝釈山の奥嶺を背に岨つ崖上に玲瓏とした佇まいであった。丹生連山から吹く風は、美嚢川を通り道として松籟の中、夜気に包まれた三木(釜山)城主別所長治、友之兄弟の顔を心地よく撫でた。いずれにしても鏘然とこの世に意義ある生命の光芒を如何にせんと長治は東播磨の名門、別所氏の武将として身を処したのである。何千何万年という悠久な時の流れの中にあって、人間一人の六十年七十年はほんの一閃でしかない。況や長治二十三歳をいずることない生命はなお儚い。家臣、民百姓の上に悠久な光を持った生命こそ真の長命であり、真に命を愛したというべき永久(とわ)の耀きとなろう。長治は意を固めた。


三木城主別所小三郎長治の麦秀黍離(ばくしゅうしょり)ともいうべき降伏宣言の直接のひきがねになった三木合戦史上もっとも熾烈な戦闘といわれた加佐、大村坂の合戦とはどのような戦であったのであろうか。歴史を繙(ひもと)いてみる。
丹生山明要寺、淡河城の落城によって東からの糧道を絶たれた三木城は窮乏の極みであった。籠城で七千五百人もの家臣一族郎党を抱えた城内では日々厳しい状況が続いた。別所方からは間道(抜け道)などを通じ中国の毛利方へ使者を遣わし、再三にわたり窮状を訴えた。軍勢と食糧の支援を要請したのである。 三木城への間道は無数にあるのだが、主だった糧道となると三乃至四つであろう。兵庫の港から陸揚げされた物資は花熊城(神戸市中央区)を経由して丹生山、淡河城、満田城(三木市三津田)を経て山間を通り三木城へ搬入するルート。高砂から舟で遡上するという舟運を利用したもの。明石魚住城の西方から直に北上し、三木城の北側から入るルート。今一つは魚住城から一直線に三木に入る丘陵や山間を抜ける道である。しかし加古川や美嚢川を遡上するという舟運は高砂城落城の後、秀吉の軍船により封鎖された。丹生山も潰えて残るは二つの糧道が細々と繋がっているのみである。
『(中略)其の後、毛利輝元、小早川隆景、三木城の行末を支援する可成し。数百艘を艤(ぎ)し、夜中に明石の魚住に盪(お)し上がる。軍使は乃美兵部丞、児玉蔵内大輔、此外雑賀の士卒加勢を成し、塁を堅めて居陣す。(秀吉勢は)之に依って三木魚住の通路を塞ぐ為に、君が峰(三木市大塚)を始め廻りの付城五、六十其の透々(すきすき)に番屋を立て、柵、堀、乱杭、逆茂木、表には荊棘(いばら)を引き、裡には堀を浚(ふかく)す。寔(まこと)に走る獣、飛ぶ鳥も逃れ難い況(いわん)や人間に於て乎。』(播州御征伐之事)

天正七年(1579年)九月九日深夜、闇を突いて毛利の大軍が御着、曽根、衣笠の士卒とともに三木城に食糧、武器を搬入すべく秀吉方の武将、谷大膳亮衛好が守備する平田の砦を襲撃したのである。九月はじめより手筈を調えていた毛利軍は同月九日未明、三木城へ食糧、物資を搬入すべく芸州の生石中務、乃美兵部丞、児玉蔵内大を筆頭に数百艘の軍船を二班に編成し、海路高砂と明石・魚住の浦に派遣し魚住城はじめ浜四(明石市魚住町)、龍ヶ丘(神戸市西区岩岡町)に砦を築き食糧補給基地とした。一方別働隊は加古川を遡上し加古川本流と支流である美嚢川との合流地点僅か上流に位置する室山に出た。一部は秀吉方の三木包囲軍の目を和田に集中させるべく美嚢川を遡り和田河原に食糧を陸揚げした。その間隙をぬって本隊は密かに室山(現小野市樫山町)の隣にある市場(現小野市市場町)の太郎太夫村に大量の食糧を陸揚げした。夜を待って山田村を経て金剛寺、敵の屯所を襲撃し、それより南下し払暁に至って援軍として加勢にきた此外雑賀率いる門徒衆九千余人はじめ諸城の精鋭部隊千数百騎がこれを警護し北の尾根を伝い炬火を灯さず東進し、夜半すぎ(子の刻)には谷大膳が守備する平田の塁塹が見えるところまで近づいた。毛利軍、雑賀兵の影は闇に融けている。谷大膳方が軍を偵知することはむずかしいと覚った毛利軍は、星の耀きがおとろえぬうちの襲撃の機を計った。もとより三木方から見て防備の薄い方面といえば、ここ平田、大村の砦であることは、三木合戦勃発直後に夜襲をかけ、別所軍が大勝利をおさめたことを想起すれば合点がいく。
三木城へ搬送する糧道監視の重責を担う谷大膳の陣営は、深夜のこととて毛利方の奇襲を全く察知できず兵卒須く秋の夜長の眠りを貪った。敵の虚をついた毛利軍は、平田の砦を目差し一気に攻撃を仕掛けた。真夜中の然も不意の敵襲に大混乱を来した兵卒らは右往左往するも、守将の谷大膳は身の丈六尺に喃々とする大力無双の豪傑であり、怯むことなく部下を督励し自らも大長刀をふるって毛利、別所兵を薙倒した。しかし衆寡敵せず身に五十余創を受け、自軍の兵共々討死にした。残る兵卒は深手を負い満身創痍、既に闘う気力さえなく四散した。

九月十日夜明けと共に谷大膳の憤死を知らされた秀吉は、平井山の本陣から新手の兵を美嚢川を渡り久留美、跡部山の峰伝いに平田砦、大村坂に兵を大挙進めるに至り、ここに三木合戦最大の激戦であった加佐坂、大村の合戦へと雪崩込んでいくのである。
一方、秀吉の援軍がくることを予期していた別所勢は三木城中より別所吉親が三千五百騎、別所方随一の智将、淡河城主淡河弾正忠定範も数百騎を率い共に参戦。秀吉軍はこれに呼応する如く三木勢と大村坂に陣する毛利軍との間を突きっきり加佐坂の真上から怒涛の如く攻め下りたため両軍主力が入乱れ大激戦となった。戦列は乱れ死闘は激烈を極めた。 この戦いで秀吉方は平田、大村砦を破られ、数百名の戦死者を出した。三木方も大将格七十三人、士卒八百余人の犠牲者を出し負傷者はその数倍といわれる。三木方の戦死者のうち、大部分は加佐・八幡森附近(現三木市民病院西側)で羽柴軍の追撃に合い、城を目前に見ながら討死、或いは食糧を担い鼎に城に入らんとして千余人の戦死者を出したのである。
淡河弾正定範もその一人だ。弾正は過ぐる六月二十七日の秀吉軍との淡河城合戦では、敵陣に牝馬(ひんば)を放つという奇想天外な戦法を以って秀吉軍を敗走させ、その名を轟かせたほどの智将である。そして九月十日、終日に及んだ加佐、大村合戦に淡河弾正はこの日家臣共々東西に駆入り果敢に敵を討ち取ること数度。やがて日が落ち主従五騎となり三木城に帰城せんとして八幡森(加佐)に至るが、敵兵の知るところとなり応戦する。敵兵数人を討ち取るも最早これまでと自刃し果てた。 時に弾正定範、行年四十一歳。


ところで、この合戦で毛利、三木勢が幾つかの重大な過ちを冒していることに気がつく。
それは毛利軍は三木城へ食糧、物資を運び込むことが最大の目的であ使命であったはずである。
しかし毛利勢は食糧搬入を二の次にして戦いに走った。別所、毛利勢による決定的な作戦ミスである。惜しむらくは食糧物資が三木城に搬送されていたならば、いずれ落城するであろうが亦違った展開になったであろう。就中三木城に搬入されなかった大量の食糧・物資は秀吉勢がまんまとせしめ分捕ったのである。そしてそのことが愈々秀吉を勢いづかせることになる。この戦いで秀吉方にも多くの戦死者を出したものの秀吉軍の戦力がまさり大勝利に終った。別所方は有望な家臣郎等が多数討死にし、その打撃は致命的でさえあった。
討死にした家臣の中には淡河弾正忠定範はじめ後藤又左衛門、別所甚太夫、光枝小太郎、櫛橋弥五三、高橋平左衛門、小野権左衛門ら錚々たる大将格十数名ほか家臣郎等六十余名の名が見える。

淡河弾正忠定範と淡河城
『天時不如地利』
『地利不如人和』 
淡河家の家紋である丸に三ツ鱗の家紋と「天時不如地利 地利不如人和」と縫いこまれた軍旗を翩翻とはためかせ、馬上にある淡河弾正はさながら武田信玄の「風林火山」を髣髴とさせる。この句は孟子の公孫丑下篇に見られるのだが、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。」つまり「天の時」は実行の機であり、「地の利」は立地条件。「人の和」は組織の団結であり、最も肝要なのは「人の和」であるという孟子の言葉を実践した智将、淡河弾正の面目躍如といえよう。

「淡河氏の祖は承久四年(1222)淡河庄地頭職として補任された北条氏の一族某で、 のち庄名を氏として淡河氏を名乗ったものであろう。誰の代から淡河氏を名乗ったか定かではないが、石峯寺(しゃくぶじ)文書建長元年(1249)寄進状には、預所兼地頭代平とあり、南北朝より室町時代にかけて平朝臣で通している。特に文和二年(1354)の寄進状、遠江守平(平氏)と永和元年(1375)の石峯寺本尊胎内銘にある淡河遠江守入道政宗(65歳)は同一人物であるから、北条氏の「姓」を誇りにしていたのであろう。亦家紋も三ツ鱗であるから北条姓は事実であろう。」(淡河町郷土史家・下田勉氏)

参考のため、下に簡単な淡河氏系譜を記しておく。
北条某━時房━時盛━時俊━政俊━政高━政氏━政宗━範清━
季範(養子赤松庶流中嶋氏より) ━ 則清(後則政に改)━ 政盛━則盛━元範━範之━弾正定範
註:北条時房━安元元年(1175)〜仁治元年(1240)

建武三年(1336)八月七日淡河庄にて合戦があったことが「国次系譜」に記されている。
国次系譜によると、当時の淡河弥二朗範清は南朝方に与(くみ)して赤松軍と戦い南朝方の為に粘り強く戦ったとあるが、この系譜の国次家は刀鍛冶として代々淡河氏に仕え修理介などの官名を世襲しているところからも淡河氏の兵器廠としての任にあたっていたのであろう。また一方範清の叔母にあたる政氏の娘を吉川庄(三木市吉川町)の城主渡瀬信綱の妻とするなど勢力の拡大に努めていたようである。
さて上の系譜にあるように政氏の子が政宗だが、延慶元年(1308)に生まれている。遠江守に任じ歴応二年(1338)八月の淡河合戦の時三十歳である。のち文和二年(1354)二月一日石峯寺へ大般若経料足として田畠各一反づつを寄進し、永和元年(1375)入道し、同年五月三日石峯寺本尊地蔵菩薩像を寄進している。(石峯寺古文書)
政宗の子を茂一郎範清という。明徳二年(1391)十二月山名氏清の乱に将軍の召に応じて京都にて参戦している。南北朝の頃の淡河氏は、当時播磨守護職であった赤松氏に叛し南朝に属していたのであるが、翌明徳三年十月南北朝が合体し名実ともに足利幕府が確立し幕府創設の第一の功労者として四職(ししき)に加えられた名声に媚びたのか、或いは偶々範清に嫡子がいなかったからか、赤松の庶流である中嶋彦八郎の嫡子季範を養子に迎えたので、淡河氏は以降赤松氏の信任を得ると共に播磨、攝津の国境を警備するという大任を帯びるに至った。
季範の子を則政という。嘉吉元年(1441)赤松満祐が時の将軍足利義政を弑した所謂嘉吉の乱となり赤松一族は「城ノ山城」にて亡んだが、この時攝津の有馬郡より攻め入った山名軍と淡河城主則政は善戦したが衆寡敵せず遂に開城し降った。以降山名軍に従属したので淡河氏は安泰を得たようだが、これは偏に播磨の国境守備という地理的枢要な立地に負うところが大きい。
さて、下記「赤松家奇跡の復活」で詳述しているのだが、一度亡んだ赤松家が奇跡の復活を果たしたその赤松家復興の第一の功労者である別所則治が東播八郡二十四万石を賜り三木城(釜山城)を築いたことを以って別所氏中興の祖と言われた則治だが、淡河氏はこれを好機と捉え別所則治の旗下に属することになる。政盛の子弥三郎則盛も別所氏に属し処々に転戦し主家に忠勤を励んだようである。

下の状は別所村治(就治)より石峯寺寺領に関し則盛へ与えた書状である。
石峯寺諸役以下事承儀候間閣申候恐々謹言
  九月二十九日            別所村治(花押)
淡河弥三郎殿御宿所
註:別所村治は就治のことで別所長治の祖父にあたる。

則盛には嫡子がいなかったので苔縄城主赤松兵部範行の次男、次郎元範を養子とし娘をして娶わせた。元範は文明五年(1473)苔縄城に生れ、明応年間(1492〜)に淡河家に入ったと思われ弾正小輔を任ずる。永正十七年(1520)浦上叛乱の時も亦尼子軍入播の折りも赤松家の為忠勤を励んだ。天文二十三年(1553)攝津有馬郡の有馬月公重則が三好長慶の援軍を得て三木城を包囲した時、淡河城も攻略せられ元範もよく戦ったが利あらず遂に落城の憂き目を見たが、五年の後別所家の応援もあり永禄元年(1558)再建を成した。

淡河弾正定範の出自
元範の長男を弥三郎範之という。永禄二年(1559)父元範歿するに及び家督を継ぎ兵部小輔に任じた。範之は天正五年(1577)長治の弟、別所彦之進友之に従い、波多野氏(長治の妻照子の実家)加勢のため丹後に出陣し処々転戦し軍忠を励んだが、同年病に伏し卆した。範之の妻は渡瀬城主(三木市口吉川町渡瀬)渡瀬信濃守高治の末女である。
範之には子が無かったので備前国英田郡江見庄(現岡山県英田郡江見町)の江見城主・江見又治朗祐春の次男、次郎行定を養子としたのである。行定(後の淡河弾正定範)は天文八年(1540)江見城に生れ、年代は定かではないないのだが弘治年間(1555〜1557)に淡河家に入り「定範」と名を改め、永禄年間(1558〜1569)の始め頃に三木城主・別所加賀守就治(村治)の女(娘)を娶り弾正忠に任じた。永禄十二年(1569)実家の江見家が備前の宇喜多氏に亡ぼされるや弟である新三郎定治(のち長範と改める)はじめ一族郎党多数が定範を頼り淡河家へ逃れ来たので弾正定範は凡てを召し抱えた。伯父範政の居城である野瀬城(神戸市北区淡河町野瀬)を弟新三郎長範に与へ、近隣諸国に淡河家の隆々たる家運をしめした。
野瀬城:北区淡河町野瀬 
廃 城:天正7年(1579)  城主:淡河新三郎長範

弾正定範が別所就治の娘を娶ったのが永禄年間のはじめとあるから定範が淡河家に養子として入って後五、六年が経った定範二十三歳(永禄5年・1563年)の頃に結婚したと推測されるのだが、定範の妻(安治の妹)の名前も年齢も判明していない。況やどのような生涯を送ったのかを郷土歴史研究家の証言、系譜等史料を得、検証したのであるが未だ不詳である。三木城が落城し二十数年後を経た1600年間初頭、定範の弟は有馬則頼に仕え、定範の兄範春は三木城に入質後黒田官兵衛の家臣となる。のち官兵衛の嫡子、福岡五十二万石城主黒田長政に仕え福岡における淡河氏の祖となったのである。また弾正定範の長女は有馬郡道場城主(神戸市北区道場町)松原右近太夫貞利の妻である。定範の長男若竹丸は早逝。次男次郎丸は三木城に入質、その後裔は四国坂出に渡海している。
定範の兄淡河甚左衛門範春の子孫の方が今も淡河の姓で福岡の久留米市青峰町、鳥栖市曽根崎、久留米市安武町におられる。お三方のうちのお二方と電話でお話する機会を得た。安武町にお住いで病院経営の淡河氏(故人)は二十数年前、淡河城本丸跡に「淡河城址」石碑が建立された記念の除幕式に青峰町の方と北区淡河町に来られている。現在小生の我侭な要請(淡河家の系譜を精査して城主・定範の妻の名前を調べてほしいとの要請)を聞き入れて頂いたのだが、未だ判明したとの知らせはない。
一方、弾正定範の家臣一族郎等百名近くが海を渡り四国香川県の坂出に移住していることが家臣一族の後裔の方で現在は埼玉県越谷にお住いの金岡様という女性の方のお手紙で知らせて頂いた。そして金岡様のご紹介で坂出郷土歴史家の津山昭氏から貴重な史料、系譜等数点を送って頂いた。あらためてお礼を申しあげたい。その史料の一部を掲載させていただく。

淡河家・須崎家々譜 抜
(淡河家々譜)
(前略)赤松備中守 義了
コノ備中守ニ男子四人有り而嫡子兵部次男外記 三男治部三良四男男同所江別家シテ阿賀刑部ト伝
于時(ときに)天正年中織田信長ノ下知ニ依テ羽柴筑前守秀吉多数ニ而播州江出陣シテ
赤松家合戦数度也 本家赤松氏ヲ始メ三木別所田中赤穂等数度ノ軍ニ凌ヲ削リ千変万化ト
合戦スル処赤松家武運拙ク落城シテ味方一族所々江離散ス此ノ時別所田中赤穂等一族ハ讃州北條郡那珂郡塩屋両所江落来ル赤松兵部、同外記、阿河刑部、別所小三良、同隼人、田中孫右衛門、大石斉、鎌田順庵、中嶋兵部、介十良左衛門、大嶋平右衛門、青木内記、平山五良左衛門、三宅卓順、中野慶蔵、片山八良太夫、中村茂作、入嶋辰五郎、三野助五郎、大江清助、北浜主水、山地藤作、多田羅藤兵衛、岩嶋八良、中井五良八、小野辰五郎、宮本勘十郎、木村助六、三野十作、鷺野大学、青山外記、平嶋兵九朗、斎藤慶輔、勝間五良左衛門、田淵藤四郎、黒田順吾、中山主馬、小林惣兵衛、須藤又八郎、津山弥左衛門
                      (淡河宏氏所蔵)(須崎純一郎氏所蔵)
杯都合九十八人坂出村塩屋村両所江落来ル夫ヨリ讃州之浦所託間、乃生、木澤、高屋、青梅杯所江離散シテ居住ス
赤松兵部   師資
赤松四良兵衛 師高
 于時正保二年  酉                 
註:于時=ときに。正保二年=西暦1645年。『坂出市誌・史料編』より(津山昭氏提供)
※上記別所、赤松の名がみえるところから渡海した九十八人の中に
淡河氏家臣のみならず別所方の家臣も多く含まれていたのであろう。

就治━安治━長治と続く。長治にとって父安治の妹は叔母であるから、その叔母の婿である弾正定範は義伯父にあたる。長治の父である三木城主別所大蔵大輔安治が元亀元年(1570)突如病没したので、嫡男である長治は僅か十三歳にして三木城を継ぐことになる。安治には多くの兄弟がいたが、その中から深謀な山城守吉親(よしちか)と武勇の誉れ高い孫右衛門重棟(しげむね)が長治の後見役に任ぜられた。この二人は長治からすれば叔父にあたり、弾正定範にとって吉親、重棟は義兄弟であるので共に後見役として尽したようである。(三木市別所町にある法界寺(北川住職)過去帳には定範、別所家執事とある)
さて、三木城陥落後淡河氏の一部(定範の弟、新三郎長範ほかであろうと思われる)がこともあろうに敵将秀吉の軍師を務めた黒田官兵衛に付従い九州くんだりまで落延びるなどということは普通は考えにくいのだが、過去を遡ってみると意外にも黒田官兵衛と淡河氏との間に深い関係を有していたことがわかる。 まず既述のとおり黒田官兵衛は備前国邑久(おく)郡福岡(現岡山県長船町福岡)の出であり、一方淡河弾正定範の祖は同じく備前国英田郡江見庄(現岡山県英田郡江見町)であることだ。両氏は共に備前国であり赤松氏の影響下にあったのである。 また、弾正定範の弟長範の妻と黒田官兵衛の妻とは姉妹である。すなわちこの姉妹は加古川志方城主櫛橋秀則の娘である。秀吉は官兵衛と淡河長範が姻戚関係にあることに着眼し、官兵衛の妻を通じ淡河定範や長範が寝返るよう秀吉得意の懐柔策を弄し百方手を尽くしたのであろうが、義に堅い淡河一族は秀吉の誘いに一切応じなかった。しかしこの期に及んでも未だ尚秀吉は弟秀長に淡河城の攻撃を命じていないところを見ると、秀吉は定範が降ると確信していたのだろうか。

秀吉が秀長に攻撃を命じたのは天正七(1579)年六月二十七日直前になってからである。信長が淡河城の攻撃を命じ越前衆のうち不破、前田、佐々、原、金森等を突如として淡河に派兵させ淡河城の四方に付城を築かせたのが天正七年四月八日である。そして秀吉の三木陣より杉原、浅野、有馬等も急遽淡河に駆けつけ付城建設に当ったのである。付城は四月下旬には完成したようで、城の北方天正寺山には杉原七朗左衛門(三木城落城後の城主)、城の南には浅野長政、東の丘には有馬則頼、城の西南三上には有馬則氏を配したが、いづれも付城は淡河城よりも高所であり、攻撃には秀吉軍が優位であるのは言うまでもない。
同年五月二十二日突如秀吉は丹生山明要寺を襲い山に火を放つのである。(下記「丹生山燃ゆ」で詳述)そしてその翌二十三日からは本格的な淡河城攻撃が始まったのである。
三木平井山本陣の秀吉は弟秀長に大軍を以って淡河川の右岸に鎮座する八幡宮(現淡河八幡神社・足利神主)の附近に陣を敷かしめた。別所旗下随一の智将淡河弾正定範が守備する天与の要害を具える淡河上山城を落とすのは容易ならざることは秀吉も弟秀長も充分知悉しているがゆえに持久戦を採ったように見えるが、然しよくよく考えてみると天然の要害とはいえ、守城(淡河城)は僅か三百数十人である。態々大仰に四ヶ所の付城に舎弟秀長の出陣もあるまい。しかしこの作戦に秀吉の心中と苦汁の策謀が見て取れる。
天正五年(1577)以来秀吉の中国攻の参謀として秀吉の右腕とも頼む竹中半兵衛は三木城、淡河城攻略の真っ直中の六月十三日平井山で病歿している。一方左腕の黒田官兵衛は荒木村重に幽閉されて伊丹城にある。両腕をもぎ取られた秀吉は官兵衛の妻と定範の弟長範の妻が姉妹であることに活路を見出そうとしたのである。つまり智将定範を戦わずして味方に採り込もうとしたのである。秀吉が弟秀長に淡河城の攻撃命令を躊躇したのは、既述した諸々の事情が秀吉にあったということの証左ではなかろうか。そして六月二十七日になって痺れを切らした秀吉はやっと重い腰を上げるのだが、四月八日に淡河城攻撃を開始して以来三ヶ月近くを徒に日を費やしたことになる。

黒田官兵衛孝高(如水)の出自
黒田氏は、近江国佐々木氏の末流といわれている。
黒田伝記系図によると、「近江国佐々木氏信の孫 宗満弘安の頃、伊香郡黒田村に住し、黒田判官と称せらる。その七世孫 左近大夫高政、備前 邑久郡福岡村に移る。その子 下野守重隆、その子 美濃守職隆、播磨御着の城主 小寺氏を頼み、その家臣となる。その子 孝高なり。」とある。
鎌倉末期、京極満信の次男宗満が近江国伊香郡黒田村に住んで黒田判官を称したのが始まりとされる。以後、守護京極氏の一族で、その被官に組み込まれ黒田村に居館を構え、黒田氏を称するようになった。高政は永正八年(1511)山城国船岡山の戦いに出陣したことで将軍足利義稙の怒りを買い、親族を頼り備前国邑久郡福岡村に移り住んだ。
宗満の後は宗信−高教と続き、高宗の後は
高信−清高−政光−高政−重隆−職隆−孝高(官兵衛)−長政(福岡藩52万石)−忠之と続く。黒田氏が備前に移住したのは高政のときだが、高政の子重隆は播磨に移る(一説には加古川の上流域黒田庄町に城を築いたと言われている)。黒田家は目薬の製薬と今で言うところの金融業とで財力を得、土地の豪族として勢力を広げた。重隆の嫡子職隆(もとたか)は赤松氏の一族で御着城主小寺則職(のりもと)に仕え、重臣を務める。当時職隆は城主則職の猶子となって小寺の姓を名乗る。以後職隆(もとたか)の子官兵衛孝高も小寺姓を名乗り十六歳で小寺政職(まさもと)に仕えている。のち官兵衛父子は秀吉に姫路城を譲るのだが、これを機に黒田姓に戻っている。
因みに現在の九州福岡県の県名の由来は、黒田氏の縁故の地名「福岡」を黒田蕃の城下町につけ、旧城下町の福岡を採用。それが県名になったとされている。
黒田長政が築城の際自身の本貫地である備前国邑久郡福岡の地に因み命名したのであろう。

淡河城(おうごじょう)別名上山城
淡河城址は神戸市北区淡河町本町字上山にあって美嚢川の支流である志染川が三津田(三木市三津田町)で分岐する淡河川南岸の突き出た半島状台地の突端部に位置する。北側、東側から見上げれば高さ20mもの急峻な断崖が天然の要害となっていることがわかる。
その急峻な崖に丸太を打ち付けた螺旋状の階段が地元の有志らによって設けられていて、
雑草が繁茂する中を息を切らせて登り詰めると本丸跡に辿る。本丸跡から北方を見遣ると広大な田園風景が広がり、目を引き寄せると中世からの幹線だった湯乃山街道が見下ろせる。また攝津の南北を結ぶ道が交差し、加えて播磨と攝津の国境という地理的枢要な地でもある。
現在城域の大部分は田畑となっているが、本丸周辺は空掘、土塁などの残欠が残っていて城館の旧状を知る便となっている。城の主核部である本丸は、最北端の突端部分にあってその麓には淡河川の支流である裏川(浦川)が丹生山、帝釈山を源にして流れ込んでいる。

『淡河城復元図』によれば、西側は土塁が築かれ南に至るほど高くなり、その外部は空掘によって二の丸に対している。南は天守台が東西に連なり、その南は深さ10米の空堀と水掘によって二の丸を囲っている。この長矩型の天守台は本丸の防御と指揮所を巧みに兼ねている。本丸の西南隅には本丸門があり、この本丸門を出ると南は水堀、北は空堀となり要害を極めている。東の端は少し小高い台地となりその背後は垂直に近い切岸で丹生川(裏川)が裾を流れている。この凡そ二百坪ほどの台地は淡河氏の菩提寺であった竹慶寺跡で今は畑、水田となっている。竹慶寺は江戸中期に廃寺となったのだが、江戸後期には明石藩より度々維持状況を糺されている。これは黒印を持っていたので廃寺を理由に黒印の取消しを迫られたのだが、時の庄屋(多分当時の大庄屋村上喜兵衛であろう)の仲立ちで江戸末期まで黒印を維持した。慶長十三年(1608)池田藩の淡河検地の折、竹慶寺へ下記の如き黒印を附している。

三木郡淡河中村為城山寺領高一石三斗四升御地検帳之内引寄進候全有寺領地
   慶長拾参年参月拾壱日
    (竹慶寺)             若原右京亮
    城山寺                  良長(花押)
註:黒印=墨、あるいは黒色の印肉を用いて押した印影。また、それを押した文書。
室町・江戸時代にかけて、武家や領主の公文書に用いられた。「おすみつき」はこれに由来する。また百姓、町人も広く使用した。[黒印状、朱印状]

嘗て西ノ丸には阿弥陀堂と大歳神社があったが、現在はその境内のみ残し他の神社に合祀されている。阿弥陀堂の境内にはもと竹慶寺にあった淡河氏墓碑が移されている。宝篋印塔(ほうきょういん)、五輪塔など南北朝以降室町末期にかけての墓碑は代々続いた淡河家の栄華を如実に物語っているようだ。私は淡河城址を度々訪れているのだが、今回は淡河氏一族の墓碑の確認と撮影にあった。いま一つは淡河城址から北東四kmに鎮座する別所家、淡河家にとって頓に所縁のある名刹・石峯寺(しゃくぶじ)を訪ねることであった。
淡河家の墓域は白壁で三方を囲まれ、三ツ鱗の家紋の下に「淡河家廟所」と掘り込まれた石碑が隆と建ち、その周囲に歴代淡河一族の墓碑が十数基ほどもあろうか風化が激しく読取れなかったが静かな佇まいをみせていた。ここ暫くは誰もお参りがないのだろうか背丈ほどもある雑草が茂っていた。
平成十五年に本丸の真下に国交省の管轄で全国的に整備された「道の駅」淡河がオープンした。
これに伴って淡河城跡も整備され登山道と本丸跡に二層の櫓(やぐら)が建造され「淡河城址」の看板も設置された。さて淡河城は別名上山城ともいい、幾度か戦火にさらされたがその都度旧に復している。淡河氏の祖は承久四年(1222)淡河庄地頭職として補任された北条氏一族の右近将監(しょうげん)成正が派遣され、のち淡河という地名を氏として淡河氏を名乗ったものである。京都の歓喜寺に国宝「一遍聖(ひじり)絵六条縁起」(正安元年1299)がある。これは北条時宗の開祖一遍上人の生涯を描いた絵巻物で、この巻十二に『六十万人の融通念仏は同日(正応二年・1289・八月二十一日)播磨の淡河殿と申女房の参りてうけ奉りしぞ』と記されている。兵庫の光明寺の観音堂(神戸市兵庫区・真光寺)で、上人が亡くなる直前に播磨の淡河氏の女房が駆け付けて最後の念仏を受けたという。つまりこの頃には既に淡河氏が国人領主として大きな勢力を持っていたとことを示すものであろう。
嘗ての天守台跡に天正七年淡河合戦より395年を記念して「淡河城址」と彫られた巨大な石塔が建立された。その碑文を地元の歴史家である下田勉氏が揮毫され、福岡からは久留米市安武町の淡河浩氏、鳥栖市曽根崎の淡河氏お二人が来られたようだ。その三人の名も石碑の基礎部分に嵌め込まれた銅版に刻まれている。


昭和五十八年七月 三木郷土の会「三木史談」第十号に掲載された
加佐在住・境 一氏の寄稿文を紹介する。

「昭和五十七年九月十日淡河弾正404回忌を記念して淡河弾正忠定範の碑及び碑文、平田大村加佐合戦陣没将士慰霊碑を建立し、周囲を整備し史跡公園とした。
本事業にあたり土地所有者森田氏の提供を仰ぎ協力頂いた。そして弾正定範の命日にあたる九月十日に淡河一族の方々、別所長治公の部下一族子孫の方々。四国からは阿賀準三氏はじめ一族の方々数十人が出席された。除幕式に次いで淡河弾正或いはその将兵をしのぶ詩吟、和歌を朗詠し、霊を慰めた。」(境 一氏)

八幡森の感懐     土田尊舟・作

三木の堅城 戦塵に歿す
  東播の天地 血河新たなり
成敗論ずることを休めよ 大村の恨
  自刃して長へに留む 勇将の神

三木市立加佐八幡森史跡公園と名づけられ、
永遠に語り継がれることになった.。


三木城大手門
加古川の支流である当時の美嚢川は、水量も豊かで涛々とした流れのなかを行交う大小の川舟が朝な夕な賑わいを見せていたという。上津(東條町常楽寺前)、下津(現下町)、桃津(細川町)という名が見られる。また和田という地名が、美嚢川本支流沿いに二ヵ所ある。一つは志染(細目)に、今一つは美嚢川本流の下手(別所町)にあるが、この「津]「和田」の地名の由来を辿れば、ここ上津、下津或いは和田が舟を休める舟泊りであったことを物語っている。江戸時代初期には既に米や物資を運ぶ「通船」が国包を中継地として加古川本流へ出て、高砂へと往来していた。万葉集に「君が舟漕ぎ帰りきて津にはつるまで」とあるように、「津」「和田」とは鼎(まさ)に船舶の停泊投錨するところであり、渡し場であり人が多く集まるところでもある。それほど美嚢川は、山も森も田もそして人も豊穣な営みを齎していたのである。しかし美嚢川は人や田や山を潤すだけの川ではなかった。戦略的に重要な役割を担っていたのである。三木城主別所長治にとって美嚢川は自然の「堀」であり、急峻な崖は自然の要塞だったのである。三木城が難攻不落の名城である所以であり、秀吉が喉から手が出るほどこの城を欲しがったのも頷ける。
別所方は、一年十ヵ月にも及ぶ秀吉の兵糧攻めに間道からの食料補給を断たれた。天正七年十月、畢竟三木城陥落二ヶ月前、秀吉は三木城に対する付城をさらに狭めた。南は八幡山、西は平田、北は長屋と包囲し、愈々秀吉が東の大塚に付城を築いたとなると大手門から平山丸へかけての三木城は、谷をひとつ隔てた目と鼻の先だ。秀吉はこの最前線に、高さ三メートル余の塀を二重にめぐらし、敵陣偵察の望楼を建てている。長期戦を覚悟しての策であったであろうが、信長からの再三に亘る「三木城を速やかに攻略、終結させよ」との檄は秀吉の焦燥感を盈し増幅させた。秀吉の焦りは現実のものとなり、痺れを切らした信長が、京都から軍の見聞役と称して明知光秀を三木に派遣させたのである。これは取りも直さず信長の秀吉に対する厳しい「檄」であった。この戦国の世にあって、人世僅か四十年という激動の時代に、もはや二年近くも別所氏を攻略出来ず難渋している秀吉に、信長は無言の「指揮官交替」を示唆した。明智光秀の三木派兵はまさに、そのことを端的にあらわしている。秀吉は信長の心中は手に取るように判るがゆえに焦った。 おりしも新城を奪い取った秀吉の軍勢は、一気に大手の門に殺到していた。
三木城大手門は、現在美嚢川を東西に架かる上津橋東詰めに位置する平山町辺りが大手門であった。堅牢無比、三木城で一番頑丈な城門であるこの大手門を「三木戦史」は、「この門は、四つ足の門で、柱には鉄を打ち延べ、 扉は楠の一枚板で、厚さは五寸余り(15cm余)もあって透間なく、鉄の金具を打ち並べ、高さ一丈二尺五寸(4m余)もあり、棟木は銅の延べ棒であった。また、瓦は須く銅で葺かれている。」と記述している。三木城兵はこの門を最期の砦、守備として必死に固めた。流石の寄せ手もこの門を突破できず、徒に数日を過した。そして、攻めあぐねていたまさにその最中に明知光秀が到着したのである。光秀は精鋭兵三百余人に掛矢、大槌、鉄挺などで打ち砕き、堅牢な大手の門を打ち壊した。
最期の守りの本城に一人たりとも敵兵を入れるなと奮戦した別所方は、果敢に光秀軍を邀撃(ようげき)し、激戦を交わすももとより手負や怪我人死者を多く出しており退却を余儀なくされ、ついに大手門は撃破された。明智光秀はこの大激戦の功名によって稀代の手柄であると、織田信長から越前永平寺寺領のうち、百六十町歩を恩賞として与えられている。如何に三木城の大手門が堅牢であったかが覗い知れよう。

軍の見聞役として三木入りした明智光秀の援軍に奮立った秀吉は、万策尽き疲弊した別所軍に対し天正八年(1580)一月六日、守将を務める豪腕別所友之が篭る鷹の尾城を攻略し、さらに天正八年一月八日三木城二の丸と鷹の尾城の間に位置し、城南西の弱点を補うため開戦直前に普請された別所山城守吉親が守る「新城」の攻撃を開始し、激戦の末陥落させた。信長の無言の圧力は秀吉を鼓舞させるに充分であった。続いて城の東南を守り、大宮八幡神社が背負う山上に築かれた宮の上砦を急襲する。宮の上砦を守る別所兵は五百余り。ここ十数日間というもの、呑まず食わずで本城の井戸から汲まれる水以外口にしなかった傭兵たちである。痩せこけ、目だけが異様に輝いているまさしく幽鬼そのものであった。具足は着込めず、槍も持てず、立つ事さえままならぬ守備隊ではあったが、気迫、気概だけは敵より勝っていた。到底勝ち目のないこの攻防戦であっても、別所兵は決して易々と砦を明渡したのではなく、「額に箭は立つとも、背(そびら)に箭は立てじ」との気概を貫き、別所兵は退くことをしなかった。羽柴兵の刀槍に腹を貫かれながらも尚別所兵は敵兵の手に噛みつき、背中を太刀で切り裂かれながら羽柴兵の腹に食らいついた。一分一秒でも羽柴兵の本城接近を遅らせようと、その一瞬に別所兵は自分の命をかけた。凄まじいばかりの執念であった。羽柴兵に与えた肉体的損失は僅少であろうが、秀吉に与えた精神的衝撃,脅威は計り知れない。
何故ここまで抵抗するのか。秀吉、官兵衛は考え込んだに相違ない。播州武士、とりわけ名門別所氏の家臣、傭兵、町民に至るその気概は彼らの胆を震撼させるに充分であった。つまり、三木兵にとって、これは祖国防衛ではなかったか。彼等の生まれ育った播磨の山河が、尾張から来た足軽共に易々と蹂躙されるのは如何にも絶えがたい恥辱であったであろう。織田兵とて鬼畜ではないが、長島一向一揆や比叡山、伊賀の国人衆、二年前の上月城の苛烈極まりない殺戮は、既に三木の人々の耳目に達している。そして今、丹生山の明要寺焼討ちによる子供を含む大量虐殺、三木町内神社仏閣悉く灰燼に帰し僧侶、町衆を殺戮したことも目の当たりにしている。
「何れ殺されるのであれば徹底抗戦あるのみ」。この覚悟が別所兵には具わっていた。別所氏勃興時より君臨し続け、三木を治めてきた別所氏は、共に生きてきた兵、町衆、農民、神社も寺と同化していた。別所の慶弔には共に祝い、悲しむ。別所と共に日々送ってきた暮らしに慣れた日常が崩壊した時の恐怖に別所兵は慄いていたのかもしれない。しかし絶望的な戦いの中で彼等の戦意は衰えることはなかった。その気概は憐憫の情さえ誘う。劃して天正八年一月十五日、秀吉は長治に対して長治の叔父重棟(織田方)を介して降伏の勧告を行うのである。滾っていた瞋恚の念が、今は睚眦へと徐々に変化していくその狭間のなかで長治は意を決し、弟の彦之進友之に書状を書かせ、側近の宇野右衛門を使者として秀吉のもとへ遣わせた。
  
その城主長治の恩情書状は次のとうりである。
『只今申入れ候意趣は今更素意は去々年以来敵対の事、真に其の故無きに非ずと雖も今更素意を述ぶるに能はず、此れ併し時節到来天運の極まる所、何ぞ臍を噛まんや、今、願う所は長治、吉親、友之の三人、来る十七日申の刻切腹仕るべく候。然る上は士卒は雑兵等、町人等は科無き者ゆえ何卒憐憫を加へ、一命相助けられん候。然らば我等今生の悦び、来世の楽しみ何物に加えん。此の旨をのべ披露致す者也。恐々謹言。 天正八年正月十五日
         別所友之 別所吉親 別所長治 浅野弥兵衛 参る』と、書かれている。

秀吉はこの恩情書状を受け取り、長治の意図を使者を通じて聞き及んで、こう言ったという。
「流石は別所長治殿。名家別所家の名に恥じぬ潔さよ」と、秀吉は長治、友之兄弟を称え、「惜しい」と呟いた。二年前、己の判断の拙(つたな)さを今更ながらに悔やんだ。名門諸将犇めく播磨を制圧せんがため糟屋武則が居城、加古川城において無謀な高圧的態度で臨んだことが、別所家筆頭家老吉親との間に深い亀裂を生み、播州諸豪の反発を招いた。しかし事ここに至っての悔悟の念は何の意味も為さないことを秀吉は充分知悉している。今為すべきことは、長治の壮絶な覚悟に、誠実に応えることであると。元来陽気で、楽天的なこの男は悔悟の深淵から瞬く間に抜け出ている。この男の類稀な天賦と言えまいか。

鞠躬尽瘁・死而後已
長治、友之兄弟と叔父の吉親が自害する旨の書状を携えた宇野右衛門は、直接秀吉にではなく浅野長政を介している。長治は、書状を送るについて敵方の包囲軍のうち、浅野長政を選んでいる。ということに些か疑問が湧いてくる。「三木戦史」はその理由を詳(つまび)らかにはしていないが、もともと長治は織田信長とは良好な関係にあった。浅野長政との面識もあったようである。織田方における秀吉の長政に対する信任は厚く(秀吉の妻の妹が長政の妻)三木城包囲が狭まるや長政は兵を率いて一柳兵衛直末とともに城南ににある二位谷奥に陣していたが、秀吉軍の武将の中で一番信頼のおける武将であったのであろう。
長治の意を汲んだ長政は、その請願を受容し、秀吉の快諾を導き出した。その手腕の裏には、戦国の武将として的確な戦況分析と両指揮官の人間性をも知悉した長政ならではの纏め役ではなかったか。長治の目は、まさしく正鵠を射ていた。 秀吉は、この若い城主長治の気概に心を動かされ、申し入れを受諾し、酒二十樽と多量の肴を城内に差し入れると同時に各将に伝令を飛ばし、長治の意思を伝え攻撃を控えさせた。思わぬ敵将からの贈り物であったが、城内では若き城主の命と引換えに贈られた酒肴であり、我先にと駆け寄る者は一人もいなかった。長治を敬愛する城兵、民にとってみれば、まさにその肴は長治の肉であり、酒は長治の血であった。飢えに苦しみ、渇きに喘ぎながらも尚主君に忠義を尽くさんとする彼等に長治は深々と首を垂れた。そして、 城中において惜別の宴を開かんと将兵一同残らず本丸に集めた。長治はその場で、己の不明を詫びこれまでの忠義に感謝し最期の酒宴を賑やかに催すようにと申渡し、 秀吉からの酒肴を前に一族の自決と無条件開城を宣言した。長治は長い篭城により疲れ切った武将から一兵卒、婦女子の苦労をねぎらった。そして、長治は家臣を前に「秀吉殿を見誤った」と。秀吉殿の器の尋常ならざることを、この戦いを通じて漸く知り得た。到底別所の敵う相手ではない。二年早く気づいておれば、播州武士も要らぬ血を流さずに済んだものを、全てこの長治の不明である。人は、叔父吉親を責めるが、否そうではなく全ての責はこの長治にある。さらに、別所が潰えても後々武士、民衆共々生きていかなくてはならず、それには三木城を誰かに託さなくてはならない。それは秀吉公をおいてほかにはいない。と言い置いて宴の席を立った。

「鞠躬尽瘁、死而後已」とは、諸葛亮孔明の言だが、そのまま黒田官兵衛、竹中半兵衛の二人に当てはまる。半兵衛は既に平井山本陣内で歿しているが、所謂孔明に勝るとも劣らない軍師二人を両翼に従がえてきた秀吉の戦略ぶりは他の追随を許さない。如何な長治と謂えども太刀打出来ないことは長治自身一番知悉していた。百戦錬磨の秀吉と長治を較ぶるべきもないが余りにもその苦闘の戦歴において対象的だ。諸国の武将たちの動向を具に見極める洞察力、情報力、そして軍事力、どれを取ってみても二人の優秀な軍師を従がえる秀吉に敵わない。もし長治にこれらを洞察する力量、戦略家(軍師)、知恵者を擁していたら、この一連の戦は全く違った展開になったかもしれない。その一つが、外交的に合意が図られ戦争は回避されたであろうということである。史実を探る中で私はその感を一層強くした。
秀吉からの酒、肴はとても口には出来ないと拒む兵卒が後を断たなかったが城主の覚悟に、一同互いに酌み交わす盃に皆腹いっぱい食った。城主長治、友之、吉親はじめ別所一族の命とひきかえの饗宴であった。

別所一族の辞世
陽は容赦なく離別の朝を連れてきた。 白装束に身を包んだ長治の終の設えは本丸客殿。其処には家重代の甲冑、太刀が置かれ代々に亘って継承されてきたそれらの武具を見れば、無念さが盈ち溢れるてくる。誰も恨むまいぞ、長治は心に決めていた。傍らには実弟の友之がこれから起るであろう阿修羅のような惨劇を丸で意に介すことなく、静かに、然も威風堂々と長治の隣に胡座している。長治は叔父吉親のことが気にかかった。秀吉は長治、友之のほかに吉親の首をも欲している。当然乍、この残酷な戦の戦線布告の緒は吉親の口から発せられたのである。その張本人である吉親が死を拒めば、三木城に篭る家臣、城兵、町民たちの罪は問わないという約定を秀吉は反故にするのではないか。長治兄弟の後ろに控えた家老三宅治忠は敏感に察し、吉親が死を拒んだ場合如何様にも取計い、詰腹を切らせ、自分も自刃する所存であるとの意を長治に伝えた。

やがて入ってきたのは長治内室照子とその子ら、そして友之内室お尚である。それぞれ純白の衣を纏った、五葉つつじかはたまた大山蓮華のようなその妻らの美しさ、子らのあどけなさは、雪をあざむく白い妖精のようだったという。照子とその子らは長治の前に、お尚は友之の前にそれぞれ座った。そして長治が一同を促した。まず、叔父吉親内室お波がいずまいを正し前へ進み出るや、「遅参しながら先に逝く無礼を願い、私、皆より一番年長なれば、かの世の案内など致したく存じまする」と言うや否や白木の守り刀を抜き我が子の一人を腕(かいな)に抱き、一思いに我が子を刺した。続けてもう一人の子も。茫然自失となったお波は、それでも気丈に我が子の亡骸を二つ並べ、涙を拭い身を整え、晴れやかな笑みを長治に向け一言「お先に」と、襟を広げ胸を一突きに貫いた。

『後の世の道も迷はじ思ひ子をつれて出でぬる行く末の空』  お波28才の辞世である。

続いて、友之内室お尚が守り刀を抜いた。あれは、天正五年秋九月、但馬の名族山名豊恒の娘、お尚(15才)が父母に連れられ始めて出国した。行き先は播磨の国 播州加東郡極楽山浄土寺(現小野市)である。鎌倉時代初期源平の戦禍により消失した奈良東大寺の再建の命を受けた俊乗房重源上人が領所の播磨大部庄(小野)に東大寺再建の拠点として建久年間(1190年代)に建立した古刹である。この浄土寺でお尚は別所友之とはじめて出会っている。奇遇といえば奇遇。運命といえばそうかもしれない。それほど二人の出逢いは劇的であった。そして、友之の希望で輿入れすることになる。両家の政略ではあったのだが、この時代においてこの稀有な輿入れは、天正六年正月、開戦を決意する僅か二ヶ月前のことである。夫友之との生活は二年ばかり。その殆どは戦に明け暮れはしたもののお尚にとっては楽しい日々であったに違いない。…その澄んだ刃(やいば)に過ぎ去った二年の年月を映し、過(よ)ぎる千路の思いの儚さに嗚咽し、手も震え、刀を取り落とした。照子が年長者らしく優しく諌め、「武門に生れ、武士に嫁いだ身に在りながら、この期に及んで左様な振る舞いはするものではありません。皆永遠に一緒なのです。どうして悲しむことなどありましょうや」と諭され、気をとり直したお尚は、ためらいつつも気丈に襟を寛げ、己の胸を貫いた。儚い生涯だった。

『頼もしやのちの世までも翼をばならぶるほどの契りなりけり』友之妻お尚17才の辞世である。

続くは城主長治内室照子。守り刀を抜くや、四人の子らを一人づつ腕に抱きつつ、幼い命をかの地へ送り出した。愛しい我が子の亡骸をまのあたりにした照子の心は、流石に乱れ気の遠くなりそうな記憶の中で「それでは、参ります」と、夫長治と目で語った。もはや交わす言葉は要らない。無限の時空が、やがて二人に訪れた。襟を寛げ、一気に胸を刺し貫いた。倒れ伏す妻を看取った長治は、暫し虚空をさ迷い瞑目した。母照子の手にかけられた四人の子供たちは、竹姫五歳、虎姫四歳、千松丸三歳、竹松丸二歳であった。

『もろともに消えはつるこそ嬉しけれ後れ先だつならひなる世を』長治内室照子22才の辞世。

家老三宅治忠が短刀を白木の三方に乗せ、主君兄弟の前に差出した。この日、一族の最期を弔う為、城内の禅林雲龍寺七世の住職休安室泰禅師は早朝より登城してこの席にあった。長治は後事を託し、日ごろ愛用の九曜の紋を打ち込んだ金天目の湯呑と、綴錦に唐子遊びの模様を織り出した一軸などを禅師に形見として贈った。やがて、長治は弟友之に「参るぞ」の一声を発し刀の刃を腹部に突き立てた。この世の業、諧謔、悔悟、因循それらを須らくかなぐり去り、突き刺した刃を横一文字に斯き切った。遅れじと弟友之も腹に刃を突き立て、敬慕した兄の首が家老治忠の介錯によって刎ねられるのを見届けてから友之らしく鮮やかに刃を一文字に引き、抜いた刃で己の喉を一気に貫いた。と同時に治忠の介錯は空を切り裂く音とともにこの若い甥でもあり、主君でもある友之の首を刎ねた。武士の世の倣いとはいえ斯くも凄絶なものなのであろうか。「三木戦史」に花と散った別所一族の哀れさを記している。「春なお浅く、庭の紅梅は早や蕾を膨らませて、滅び行く主家の運命も知らぬ気に、匂い立つ仄かな香りもにくらしげに感じられる儚さと、哀れを漂わせていた」と。
ここに播州別所氏の嫡流は絶えた。幼少のころから穎慧(えいけい)の人と前途を嘱望され、播磨八群はおろか畿内、中国をも束ねうる度量を具えた長治の、あまりにも早過ぎる旅立ちであった。天正八年一月十七日と「三木戦史」は記している。

『今は只恨みもあらじ諸人の命にかはる我が身と思へば』 従四位下侍従三木城主
                   別所小三郎長治23才、霖雨蒼生の辞世である。

『命をも惜しまざりけり梓弓末の世までの名を思ふ身は』 弟友之21才辞世の和歌である。

主君を介錯した治忠は、蜃気楼をみる想いで暫く己を忘失していた。家中随一の豪将であり功臣であった三宅肥前守治忠は要職である家老として、知勇なる武士であった。その出自は、赤松氏の一族で別所氏とは同族の間柄である。十三歳のとき初陣で功名をたて後今日まで知勇の将として広く知られた。今ここに長治兄弟を介錯し終え、自らも主君のあとに続かんとしたその刹那、秀吉方の武士三騎が駈けつけ、自害した城主長治の首を持去ろうとした。治忠は、俄に懐剣を投げ捨て、傍らにあった鎗を構えて大声で、「兼ねての覚悟にて、士卒の命を助けんが為、議を守っての自刃なるに、その首級未だ秀吉公の実検も相済まぬ内、其処もとの功名顔せん心掛け、亦城中馬の蹄にかけ穢すは不埒千万なり、出でや冥土の共に連れ申さん」と踊りあがって跳びかかり一槍にて突き殺した。これらを燃え立つ炎の中に打ち捨てて悠々と引き帰し、静かに且何事もなかったかの如く、主君兄弟の首を箱に納め、城の直ぐ西南にある本要寺に急遽本陣を移した秀吉への遣いの者に持たせた。その後、治忠は主君一族の亡骸を綺麗に横たえ、その上に蔀(しとみ)を懸けた。あと気懸かりなのは、頑迷固陋の吉親の首があればこの長い凄惨な戦いは終焉する。三宅治忠はそう考えただろう。最後まで抵抗した吉親であったが、中沼伊賀守によて誅される。中沼は吉親の血で汚れた頬や顎を丁寧に拭取り、その首を己の羽織に包み秀吉の陣へと駈けた。全てを見届けた家老三宅治忠は、おもむろに刀を抜き刃を腹十文字に斯き切り、見事なまでの散り際を見せ主君長治らの後を追った。

『君なくばうき身の命何かせん残りてかひのある世なりとも』名家老三宅治忠辞世の歌である。

治忠四十二歳。死の間際までも主君を思い、主家に忠誠を誓う治忠の武士道魂は今の世にも息づいてはいまいか。治忠が書き付けた城主一族の辞世の和歌は、小姓の林辰之助が保存した。林は、別所家の家老林備後守の嫡子である。備後守は別所随一の智謀に秀でた人物で、信長が中国平定の砌、専らその最前線で外交交渉に当っていたが、途中病のため惜しくも歿した。然し、三木城にはまだまだ豪勇の士が多くいたのである。忠節を重んじる家臣は悲憤の涙に咽び、潔く憤死せんと、横田伝蔵、丹生太郎、曽根藤四郎、岸源三郎、中沢伊賀守以下一族十八人、衆徒の士二十七人余の別所家忠臣は、太刀を抜き敵の陣中に割って入り、死を覚悟の討入りに、敵を多数討ち取り手傷を負わせ、果敢な奮戦の末、城内に堂々と引揚げたあと、全員腹を斯き切って自害した。

本要寺に本陣を移した秀吉は、この忠節の士にいたく感動してこれ以上の手向かいを避け、兵を悉く城外に纏め休戦を宣言した。ここに長い永い三木合戦は終息した。
翌十八日、助命された残兵たちは須らく城を出た。そして名実ともに三木城は秀吉の手に落ちた。開城によって落延びる士卒たちは厳しい戦国の悲哀に耐え、世を憚って遠国に隠する者、武士を捨て農民となった者、町民となって城下に住む者、何処とも知れず散っていったといわれている。この度の激戦の末、滅び去った長治一族を偲ぶ時、切々たる悲しい気持ちを抑えきれなかった住民たち、とりわけ長治の善政を思い慕う三木城下十二村の名主たちは秀吉に願い出て、城主の遺骨を貰い受け、久留美庄東這田村生木の法界寺に埋葬し、懇ろに弔った。この十二村名とは「別所家雑記」に、高木、和田、東這田、西這田、花尻、上石野、中石野、下石野、鳥町、大村、平田、加佐とある。

黒田官兵衛姫路城を献上
三木城を開城せしめた秀吉は、中国の毛利征伐の拠点として三木城に入った。秀吉は善政を布くため、戦禍によって破壊された城郭、の修復と共に、戦禍を逃れ、隠れていた町民の帰順を促し脆策のない事を知らせるため、各町の辻々に免税の制札と宣布の告示を立てた。
秀吉が三木に本拠を構えてから数ヶ月が経ち、なお反逆の姿勢を崩さない英賀の三木通秋率いる播州門徒を鎮圧した後、考高の居城姫路城に一旦凱旋した秀吉に向かって黒田官兵衛考高は、こう言った。「軍政はこの姫路城で執るが宜しかろう。三木は確かに名城なれど、如何せん地の利が悪い。好んで播磨の辺啾で国事を布くこともあるますまい。」続いて、「姫路は播州の中央に位置し、地形も広く放射状に海路が開け、且、海も近く陸海交通の要衝で、情報の集積地である。これからの播磨での盟主たるもの、ここに築城せねばならぬ。何よりも、眼前の大目標である中国征伐を成就させんが為にはこの姫路が最も適した基地になりましょう」。そして考高はこう付言した。「そのために、我らの姫路城を差し上げましよう」。驚く秀吉に、考高の父、職隆が重ねて居城の献上を懇願した。知将、名軍師と呼ばれるに相応しい面目躍如たる黒田官兵衛父子の戦略である。黒田父子は、一族の行く末を、秀吉に託したのである。商人の血を受継いだ黒田家の一世一代の「大勝負」であった。
執着のある三木城は、町も復興の槌音が響き、賑わいも取戻しつつある。京へも近い。然し、内陸である。海路を使った大量輸送時代を迎えて地理的ハンディーは免れない。これに比べ姫路は、今は単なる御着の支城に過ぎないし、未開の地であるが、今後は枢要の地になるべき可能性を持っている。考高の指摘どうり、海陸に交通が開けている。今に経済、政治の中心になるであろうことは、秀吉にも容易に理解できた。そして、それが時代の要請でもあったのだ。姫路とはそんな地であった。今、さしあたっての軍務である毛利攻めには絶好の足場になる。未来においては、何より魅力的なのは、新しい都邑を形成できるということだ。既に城下町が出来あがってしまっている三木よりも姫路は広々としていて未来があった。秀吉は自分なりの青写真を画ける、と考えた。暫くして、秀吉は要請を快諾した。自らの城と町づくりの夢を実現するためのステージとして姫路を選んだのかもしれない。一方黒田父子は、姫路城を秀吉に譲った後、南部の妻鹿国府山城に移り、、市川の河口と瀬戸内の交通を制する要衝にある山城である。予ねてより目星を付けていた城地といわれ、前代未聞の城譲りは、黒田官兵衛考高の深い深い読みであり、予定の行動であったといえるだろう。後、黒田家は関ヶ原の合戦で武功をたて、家康より福岡五十二万石を封ぜられているが、そこに至るまでのプロセスは後述する。
東播を平定した秀吉は、官兵衛考高の勧めにより姫路城に入るのだが、「姫路城年譜」によれば「黒田考高、天正八年秀吉の中国攻めに際し姫路城を献上」とあるから、秀吉の三木在城は僅かの期間(四ヶ月)だったようである。
秀吉が姫路に入って後、三木城代は杉原七朗左衛門家次、前野勝衛門、但馬守長康、中川右衛門大輔、賀須屋大膳、福原七朗右衛門、同右馬助、青木将監、次いで杉原伯耆守長秀、伊木豊後守、同長門。小笠原右近大輔忠真となった時、時節は変り世は移ろい、海に面した町が政治上、交通上からも重要視されるようになり、忠真は幕府の命により元和三年(1617)に三木城を解体して明石に移した。これによって三木城は秀吉の手に落ちてのち徳川を経、三十七年の歳月を以って城址となってしまった。

余談だが、三木合戦のおりに宮本武蔵の兄久光とその父親家貞は別所方について戦っている。そして長治亡きあと三木城四代目の城代、中川秀政(1585)のとき、秀吉の朝鮮征伐(1592)に出兵し中川秀政は戦死するのだが、そのとき武蔵の兄久光の嫡子も従軍し同じく戦死している。武蔵と兄久光は兄弟だが、年は二十ほどちがう。兄久光には四人の子がおりその中の一人貞次のちの伊織を養子として貰い受ける。三木城址西南に箕谷墓地がある。そこに伊織が建てた実父田原久光と母の墓が三基並んでいる。今は拓本もままならぬ程の風化が進んではいるが、辺りを威圧するように凛とした佇まいであった。今は本要寺の箕谷墓地管理内にある。帰る道すがら本要寺にお邪魔した。本要寺は今、本堂立て替えの真只中にあるにも拘らず、ご住職、奥さまにいろいろお話を頂き大変有意義な時であったことを感謝申し上げたい。また下に記したのは武蔵の養子である伊織が加古川泊神社を建て直した時の棟札である。歴史的にも貴重な、一級史料といえよう。この全文は実物の棟札を一字一字書き写し、記録したものである。尚、武蔵に関する史料、お話は泊神社宮司森本慎介氏のご協力を頂いた。

泊神社棟札全文
 余之祖先人王六十二代自 村上天皇第七王子具平親王流傳而出赤松氏高祖刑部大夫持貞時運不振故避其顕氏改稱田原居于播州印南郡河南庄米堕邑子孫世々産于此焉曽祖曰左京大夫貞光祖考曰家貞先考曰久光自貞光来則相継屬于小寺其甲之麾下故於筑前子孫見存于今焉有作州之顕氏新免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信後改氏宮本亦無子而以余為義子故余今称其氏 余比結髪元和之間信州生仕小笠原右近大夫源忠政主于播州明石今又従于豊之小倉也然 木村 加古川 西宿村 船本村 友澤村 古新村 米堕 中嶋 藍市 総十七邑之氏 神奉號 泊大明神矣故老傳云所奉勧請紀伊 曰前神也而米堕又別崇 菅神焉近歳二社共殆頽朽余興一族深嗟之故一奉祈君主家運栄久一欲尉父祖世々之先志而謹告家兄田原吉久舎弟小原玄昌及田原正久等俚幹匠事而今已得新二社焉夫神之威人之得之於天無一不具所謂心稱誠道之也爾則縦雖不祈而神護可知矣雖然常人之質皆俺天徳而不能如其初書肆純一懇丹祈運継志仰冀神人有感通哉其玄昌以小原為氏者攝州有馬郡小原城主上野守源信利其嗣信忠生余母一人而無男天正之間属播州三木城主中川右衛門大夫麾下到高麗戦死焉故母命俚玄昌継其氏云
時 承應二癸巳暦五月日宮本伊織源貞次 謹白

書き下し文
余の祖先、人王六十二代・村上天皇第七王子、具平親王より流伝して、赤松氏に出づ。高祖〔赤松〕刑部大夫持貞に?〔いた〕りて、時運揮わず、故に其の顕氏を避け、田原に稱(しょう)を改め、播州印南郡河南庄米堕邑(むら)に居し、子孫世々、此に産せり。
曽祖、左京太夫貞光と曰す、祖考、家貞と曰す、先考、久光と曰す。 貞光より来りて、則ち小寺其甲の摩下に相継す。故に筑前に、子孫今に在るを見る。
作州の顕氏に神免なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒く。 遺を受け家を承くるを武藏掾玄信と曰す、後に宮本と氏を改む。 亦た無子にして、以(もっ)て余、義子と為る。故に余、今其の氏を稱す。 余、結髪の比、元和の間、信州生仕の小笠原右近大夫源忠政、播州明石に主す、今又、豊の小倉に従す也。
然れば、木村・加古川・西宿村・船木村・(西河原村)・友澤村・稻屋村・古新村・上新村・米堕・中嶋・鹽市(枝邑 今在家村・小畠村・奥野村・小河原村)・今市、総じて十七邑の氏神、泊大明神と號し奉れり。故老の言ひ伝ふる所、紀伊日前神を勧請(かんじょう)し奉る也。而(じ)して、米堕(よねだ)、又別に菅神を崇れり。近歳、二社共に殆ど頽朽(たいきゅう)す。 余、一族と深く之を嗟(なげ)く。 故に、一に君主の家運栄久を奉祈し、一に父祖世々の先志を慰まむと欲す。而れば謹みて告ぐ。家兄・田原吉久、舎弟・小原玄昌、及び田原正久等、匠事を幹せしめて、今已に新二社を得る。
夫(いず)れ、神の威厳、人の徳、天に一として具(そなわ)らぬ無し。所謂、心称誠道、是なり。爾れば則ち従ひて、祈らずと雖(いえど)も神護を知る可しなり。然れども、常人の質、皆、天徳を掩ひて、其の初の如く肆に純一懇丹なる能はず。祈運し継志し、仰冀ば神人の感通有るべけんや。其の玄昌、小原を以て氏と為すは、摂州有馬郡小原城主・上野守源信利、其嗣・信忠、余を生める母、一人にして男無く、天正の間、播州三木城主・中川右衛大夫麾下に属し、高麗に到りて戦死せり。 故に、母命じて、玄昌に其氏を継がせしむ、と云ふ。
時に承應二癸巳暦五月日、宮本伊織源貞次、謹みて曰す。

上記棟札文を具に検証すると、宮本武蔵が播州印南郡河南庄米堕邑、つまり現在の高砂市米田に生まれたことが立証できる。そして吉川英治の武蔵は大原に生まれたとの解釈には疑問が残る。
※泊神社棟札原寸法 横幅:下部 44cm  上部 47cm 
※高さ:両肩 160cm  中央部 170cm 厚み:2cm  材質:不明

赤松氏家臣団
赤松三十六家とも言われる強力な軍団を形成した家人のなかに別所氏、小寺氏、宇野氏といった強力な氏族がいた。同じ頃、矢野庄(相生市)や大部庄(小野市)などを舞台に農民を組織し荘園領主に反抗していた寺田法然、垂水繁昌らの流れを汲む「悪党」集団をも赤松一族は自陣に抱え込んでいた。赤松氏が悪党出身である所以でもあるのだが、当時の「悪党」とは現在でいう悪党とは少しニュアンスが違う。佐用荘は九条家領荘園で佐用、赤穂、宍粟、三郡に跨る大荘であり赤松村は佐用荘を構成する一村である。ところが太平記の紹介は季房の末孫とするだけで役職名はなどは一切記していない。赤松氏が村上源氏の流れであったかどうかは別にして、円心やその親たちは鎌倉時代後期には悪党の頭領格として闊歩していたと思われる。当時の悪党とは、悪僧や悪徳商人など文字どうり悪者も多々含まれるが、鎌倉幕府が御家人らの信望を失ってその政治が専制化し硬直化してゆく中で最早幕府を拠所とせず、相互に連携し新しい封建制を目指しはじめた新興武士を中心とする集団といえよう。幕府がこれを反体制集団、即ち悪党と捉え取り締まろうとしたため、鎌倉後期においては悪党が満ち溢れていたのである。南北朝時代中期に著された播磨国の地誌「峰相記」に「諸国同事と申し乍、当国は殊に悪党蜂起の聞え候」とある。つまり当時播磨は名だたる悪名地帯であった。そして、鎌倉幕府や六波羅探題の鎮圧が捗々しくないまま国中の殆どが悪党に同意し、元弘の乱に突入していったのである。この延長線上にあるのが赤松氏なのであり、広義においては悪党出身といってもいいだろう。やがて、元弘三年(1333)護良親王から鎌倉倒幕の勅令がおり、円心は躊躇なく令旨に応じた。苔縄(上郡町)に俄城を築き鬨の声をあげ一気呵成に京を目指した。途上、摩耶山(神戸市)で幕府、六波羅の軍勢を撃破し久々地、桂川の敵陣を突破し赤松の軍勢は京に迫った。一方、時を同じくして鎌倉から京に入った足利尊氏は後醍醐天皇による建武政権、さらには尊氏による室町幕府開設への布石を着実に打ったのである。この二年後(1335)鎌倉の残党、北条時行が起した「中先代の乱」での赤松貞範の働きは目を見張るものがあったという。このとき足利尊氏軍は、時行討伐に向かったものの、箱根、相模川での戦いで苦戦を強いられたが、主力軍として参戦していた貞範が常套の赤松戦法(悪党)を駆使して目覚しい働きをし、よって尊氏は鎌倉を再び奪還するのである。この事象をとってみても赤松氏と足利政権の強固な結びつきを見ることができる。円心は逞しくなった貞範(円心の次男)に姫路を任せている。しかし当時の姫山は東西に二つの小さな峰があり、貞範が「縄張り」したのは西側の峰、現在の西の丸だとされるが、それは城とは呼べるものではなくこじんまりとした居館とともに小規模な掘、柵を巡らせただけのものであるが、これを以って姫路城の起源とするようである。のち、赤松貞範は姫山に三年間在城したあと東部の庄山(姫路市飾東町)に築城し移っている。その後姫山の城には円心上洛の際、山上を守らせた小寺頼季(よりすえ)が城主としてその任に就いている。所謂二代目の姫路城主である。以降九十五年に亘り城主は小寺景春、景重、織治(もとはる)と受継がれ室町、南北朝時代初期のことで姫路城の歴史ではこの時期を第一次小寺時代と呼んでいる。小寺氏は、赤松氏の目代として姫路にあったのだが、この間、赤松氏と行動を共にし各地に起きた反乱などの鎮圧にあたっていたようだ。因みに九州南朝勢力を拡大し足利政権を脅かしていた菊地氏(熊本県菊地川沿い)の追討に景重の活躍が光り、その功績により姫路在城は四十六年間にも及んだ。歴代城主のなかでも最長記録である。
赤松総領家は円心歿後則祐に受継がれ、義則━満祐と続いていく。一時期、建武政治で後醍醐天皇に疎んじられた一族であったが、一貫して足利尊氏を支え、新田義貞の追撃を白旗城で食い止め、湊川の合戦においては楠木正成軍を撃破、再び上洛し建武三年(1336)の室町政権樹立に多大の功績をあげている。則祐、義則ともに文武に優れ、足利将軍の信望は殊のほか篤く幕府での地位も高まっていった。義則の代には播磨、備前、美作の守護職につく一方、幕府内では一色、山名、京極とともに「四職」の一角を占めるまでに上り詰めた。都の司法、行政を司る「侍所」を預かる名家を四職とした斯波、細川、畠山氏の「三管領」とともに室町幕府の中枢に位置付けられる。義則は幕府の宿老として、三代足利義満、四代義持と二人の将軍に五十五年間に亘り仕え、「金閣」に代表される室町文化の興隆に貢献している。
このような歴史的背景のなか別所氏の出自、世系はどうであったのだろうか。あまた諸説あるなかで、赤松則村円心の兄弟、五郎円光の子敦光が赤松の別所五郎と呼ばれたことにはじまるという。また一説では、平安末期の永暦元年(1160)に村上源氏赤松季則の次男頼清が加西郡在田荘別所村に在し、別所氏を名乗り別所城を築いたことにはじまるという。なかんずく南北朝期に円心の甥敦光が別所氏を継承し、加西郡を本貫地として東播磨に勢力を拡大し東播磨守護代を世襲し、敦光━敦則━持則━則康━祐則━則治━則定━就治━安治━長治と継承されていった。

嘉吉の乱への逍遥
足利政権は、肥大化する名門赤松総領家の権力を削ごうとして盛んに庶流家、つまり分家筋に接近し画策していたようである。将軍義持が持貞を殊のほか重用したのもそうした狙いが背景にあったともいえよう。
赤松円心則村のあと、貞範、光範、則祐と家督を継承した赤松氏は応安四年(1371)則祐が歿し、嫡子の義則があとを継いだが、義則は応永三十四年(1427)病没するまで五十六年間ものあいだ赤松氏家督の座にあった。幕府は足利義満のもと全盛をほこり、将軍職は義持、義量と継承された。赤松義則は守護として播磨のみならず美作、備前と赤松氏支配の領地を安堵したが、京都においては侍所の所司に就き、赤松氏栄華の時代のなかに浸ったのである。こうして赤松氏は義則の代に播磨を中心に備前、備後までも勢力を拡大していったのである。義則が歿したのち、嫡子満祐は四十五才。既に父に代わって侍所所司を勤めていたが、将軍義持は満祐の家督相続を安堵せず、のみならず赤松氏の本貫地でもある播磨国の守護職を満祐から取上げて将軍の御料地とし、その代官を一族である春日部家の持貞に預ける事を通告したのである。満祐は驚き宥免、つまり許しを請い願い出るも却下された。満祐は京都の屋形を焼払い下国し、合戦の準備をはじめる。足利義持は追打ちををかけるように美作、備前の守護職も召上げ、挙句の果てには美作は持貞の父貞村に、備前は赤松満弘に与えた。さらに足利義持は赤松満祐追討を、こともあろうに赤松氏庶流の赤松貞村、満弘に下知するのである。まさに赤松惣領家の権力を割こうとしたのである。いかに足利義持が赤松氏を恐れたかが知れよう。このように義持の画策が赤松氏内部でも総領家と春日部、七条家など庶子家との対立を生み、赤松氏栄光の陰で蠢く赤松一族各々の思惑、葛藤が垣間見れるのである。後、満祐と将軍義則は和睦するのだが、翌応永三十五年、義持は急逝する。弟の義教が将軍に立つと赤松満祐は侍所所司に再任され、土一揆なども鎮圧したりして将軍職に就いたばかり(1428)の足利義教の信任を得たのであるが、もともと猜疑心の強い義教は次第に本来の専制政治から恐怖政治へと変貌するのである。特に義教の意に添わない公家、僧侶、町衆にまでも厳しく弾圧し、それは守護職までにも及んだ。四職(ししき)のなかでも斯波、畠山、山名、京極氏らの家督を削ぎ、侍所所司を務めた一色義貫は大和出陣中に誅殺されている。一方赤松満祐は侍所所司の職に返り咲き、その任を全うしたものの、この頃から満祐と義教の関係は急速に冷えていった。それを裏づけるように満祐の領国播磨、美作が没収されるという風説が流布され、同じ年満祐の被官依藤氏ほか四名が幕府から処罰されている。この二年後一つの事件が起きる。それは、以前大和に出陣して手柄を立てた満祐の弟義雅の所領が没収されたのである。赤松満祐に落ち度があったわけではなく、有力守護家が将軍義教から次々と弾圧されてゆくなかで赤松氏もまた例外ではなかった。しかし庶流である赤松貞村は足利義教に近く、厚遇されている。また、同じく庶流家の赤松満政も義教の信任を得ていた。これらは将軍義教の赤松総領家(家督)の脅威を排除せんとする危機意識の表れであり、義教の赤松一族に対する分断作戦でもあった。赤松氏庶流家(亜流)を重用せんとする義教の画策はそれを如実に物語っている。

満祐、将軍義教を弑殺、嘉吉の乱へ
火災により、赤松邸が再建されたまさにその日、六月二十四日赤松満祐の招宴の日を迎えるのである。足利義教は些かの疑念も持たず僅かばかりの近習を従え赤松邸に入っている。当日赤松邸には満祐の姿はなく「あるじ」は満祐の嫡子教康であり、補佐していたのは叔父である則繁であった。将軍義教は内心訝ったと思われるが饗宴は和やかに進み、演目は定かではないが舞台では能楽が演じられていたという。事件はこのさなかに起きた。将軍義教を斬首したのは、赤松家中きっての猛者、安積監物であった。同席の守護も果敢に応戦するも悉く退けられ切り倒された。余談だが、雪舟とゆかりのある周防の守護大内持世はこの時の傷がもとで歿している。
時の親王、伏見宮貞成はもともと将軍義教を快く思わず「悪御所」と捉えていたので将軍の死を寧ろよろこんでいたようだ。将軍義教を恐れていた親王の日記「看聞日記」には、義教の横死はこのうえもない安堵である、との親王の気持ちが滲み出ている。
将軍義教の首級をあげた以上満祐父子は京都には留まれず西国摂津を経て領国の播磨まで逃れた。つまり幕府の追討軍を迎え撃つほか選択肢はなくなってしまったのである。恐怖政治を推進してきた専制将軍義教の突然の横死は幕府内の混乱を齎した。その結果追討軍の先遣隊が出陣したのは事件から十七日を経た七月十一日のことである。幕府追討軍は摂津から大手軍、但馬から搦手軍、それに加えて西片から諸守護勢も援軍した。追討軍の顔ぶれは、総大将に阿波守護細川持常はじめ細川一族の顔が見える。特筆すべきは庶流とはいえ総領家にあたる赤松満祐を討つために赤松貞村、満政、有馬持家らが総領家に別心を懐く者が多々加勢していることである。赤松一族同士が敵、味方に別れて戦うことになったのである。一方、搦手軍は但馬の山名持豊が総大将となり一族を決起させ南下した。赤松満祐は追討軍を迎え撃つべく書写阪本城を本拠と定め、集まった家臣は八十余名総勢四千騎ともいわれる騎馬を率いて、三方から迫る追討軍と対峙した。ここに、大義のない満祐、教康父子は勅命による綸旨(りんじ)が発せられたため、愈々「朝敵」との汚名を被ることになるのである。将軍義教の死を殊のほか喜んでいた筈の親王が蔵人に綸旨を書かせ赤松氏討伐を命じたその背景は上記に示したとうりだが、今も昔も人の世というものは魑魅魍魎としたものであり、まさに下剋上のはじまりでもあった。
大手軍は漸く明石人麿に布陣する。対する満祐方は嫡子教康を大将に別所、櫛橋、浦上、依藤、魚住らの諸将が一斉に人麿塚の大手軍に猛攻を加えた。しかし一旦須磨あたりまで追い返された追討軍は陣営を立て直し赤松方に反撃を試みたが如何せん大手軍の戦意は高揚しなかった。その訳は官領細川持之が赤松氏と懇意であったともいわれている。しかし一方宿敵赤松打倒を旗頭に赤松氏の領国奪回を狙った搦手山名軍勢の戦意は揚々としたものであった。その山名軍の播磨侵攻の報に暫したじろいだ赤松教康は阪本城に撤退を余儀なくされた。教康にとっての山名氏は、それほどまでの脅威だったのである。播磨に侵攻した山名持豊は大山口、粟賀を陥れる。大敗を喫した赤松勢は坂本城へと敗走するのだが、この責任を取って竜門寺真操は自刃し、また備前国を警護していた小寺職治も味方の謀反により為す術もなく撤退。太田、間島一族が警護する白旗城、戸倉口を護っていた常陸則尚の勢も戦うことなく敗走するのだが、西播磨の名家、豪族の名を楯にして来た赤松一族が何故いとも呆気なく敗北してしまったのか疑問が残る。一つには、赤松一族の結束の乱れによる戦意の低下、つまり、内部での総領家と庶子家との対立の激化がその最たる要因であろう。また、悪評高い将軍義教を討ったことへの赤松氏と世間、諸大名間での評価認識の乖離、齟齬も重要な理由としてあげられよう。 将軍を暗殺した時点で「朝敵」となった赤松満祐、教康父子に大義はなく被官も国人も満祐を見限り離散したのである。

一気呵成の山名軍の総攻撃は熾烈を極めた。城山城に立て篭もる赤松満祐は、もはやこれまでと悟り、将軍義教の首級をあげた猛者安積行秀に介錯させ、自刃している。安積行秀は勇士に相応しく一門の自害を見届けた後城に火を放ち自刃し、赤松一族六十九名も共に果てた。当時、庄山とも繋がりのある小寺職治の立場は微妙だったが筋を通して満祐と行動を共にし、且討ち死にしたという。嫡子義康はじめ義雅、則繁、則尚らは城山城脱出に成功したが、義雅は、幕府大手軍から攻撃に参加していた一族でもある赤松満政に降伏し、遺児の助命を嘆願した後自刃した。満政は約束を守った。のち、遺児の子である義雅の孫「政則」が赤松氏を再興するのであるが、赤松総領家満祐の自刃で赤松氏は滅亡し、また満祐の嫡子義康の自刃を以って赤松氏の嫡流は断絶したのである。その頃、京都足利幕府内においては山名、細川氏の対立がやがては十一年間にも及ぶ応仁の乱へと移行し、そして戦国時代へ雪崩れこんでいくのである。
嘉吉の擾乱が平定された後、その功績により但馬を本貫地とした山名持豊に播磨一国が与えられた。持豊は播磨一国を含め都合八ヶ国を領する大大名となり、老臣大田垣氏を名代として播磨に遣わし青山で執務させたという。自ら姫路入りしたかどうかは定かではないが播磨守護には間違いはなく、一般的には山名持豊も歴代の姫路城主の一人として加えて差支えないと思われる。、そのころ総領家を滅ぼされた赤松氏は義雅の孫政則を立てて赤松家再興を模索していた。南朝方に奪われていた皇位のしるしであり、三種の神器の一つでもある神璽を取戻すことができれば再興を許すという内諾を得て、この奪回作戦を敢行するのである。綿密な計画と大胆な行動が結実し、長禄二年(1458)ついに神璽奪回に成功し、朝廷に献上した。これにより赤松家の再興が許され、政則が当主に返り咲き、奇跡の復活を遂げた。既述したとうり、政則は城山城で自決した赤松満祐の弟、義雅の二男時勝の子である。つまり「四職」に上り詰めた赤松義則からすると曾孫にあたる。政則は人望も篤く武勇もあり、のちの応仁の乱では細川勝元の片腕として重要な働きをするのである。嘗ての赤松一族の拠点であった播磨、備前、美作の地を山名氏から攻略、奪回し、その領地を再び我が手中におさめた。

旧領地回復という偉業を達成した政則は愈々姫路城築城に着手する。現在の西の丸、東北隅に梁行十八間、桁行二十二間の本丸をはじめ鶴見丸、亀居丸などを建て、さらに桜門、桐門なども建造したといい、当時としては相当大規模な城であったと思われる。細川勝元から厚い信頼を得た政則は幕府内でも次第に要職の座に就き、遂には応仁ニ年、侍所別当に任じられ、主家滅亡という試練を見事に乗り越え赤松氏は再び「四職」の一角を占めることになったのである。その拠点として姫路城にあった政則だが、文明元年(1469)、姫路城を出て、北方十キロにある峻険の地、置塩に姫路城を上回る規模の本城を築いている。ここで三国の大守として政務を司り、後期赤松氏の隆盛を現出するのである。政則が置塩に移った後、姫路には小寺豊職(とよもと)が目代として置かれたが、この男は嘉吉の乱で赤松満祐とともに城山城で死んだ小寺職治の子で、のち赤松再興に奔走した。その甲斐あって赤松とともに復活し、豊職のあと政隆、則職そして家老の八代道慶へと続いて行く所謂第二小寺時代を迎える。

別所氏中興の祖則治
嘉吉の乱で滅亡した赤松総領家が再興なったとはいえ政則の死後、守護赤松氏の力は急速に衰える。それに呼応するかのように赤松氏領国は東播磨の勇として頭角をあらわす別所氏、御着の小寺氏、英賀城の三木道昭ら小規模戦国大名の台頭に取って代られた。とくに東播磨八郡(美嚢、明石、加古、印南、加東、加西、多可、神東)を平定していた三木城の別所氏が播磨国の群雄のうちでその最たるものであった。そんな中、明応元年(1492)頃に別所則治が三木城(釜山城)を築いたといわれている。別所則治は祐則の子で幼名は小治郎。既述したとうり嘉吉の乱により赤松氏に加勢した別所家も滅亡という憂き目にあっている。しかし、もともと別所氏も頼清が三木に築城してから九代、百八十余年にわたり弓馬の名家として栄えた家柄であり、家臣の中でも弓の達人で穿柳の人との呼び声高い武将が犇めく。山名持豊に領国を奪われた別所氏、とりわけ則治は当時七歳。母と共に隠棲し、世を忍んだ。やがて赤松氏の遺臣らが細川勝元らと主家再興の旗幟を挙げたとき、別所則治もこれに参画し、遂に山名氏一族を播磨から撃退することに成功した。赤松政則は、則治の忠義と武功を褒賞し、そしてこの時東播磨八群、石高二十四万石を与えるとともに、従五位下大蔵少輔に叙している。そして則治五十八歳の時三木城を再築して釜山城と名付け、その家名を上げた。別所氏中興の祖といわれる所以である。別所氏の系図は、いまに諸本が残っているが「赤松諸家大系図」「別所族譜」がその主だったものであるが、この頃の播磨の歴史には、擾乱の世ということを加味しても不明な点が多々ある。しかし別所一族が歴史の上に忽然と登場するのはまさに則治からである。則治の父は祐則で、嘉吉の乱で戦死している。則治の子は則定であるから当時の別所氏は「則」を通字としていたようだ。赤松政則は福岡城救援をという家老の意見を無視し但馬の山名本国を衝こうとしたが適わず、翌年所司代として京都にいた浦上則宗が急遽播磨へ下向してくるやいなや国人領主の多くが則宗のもとに参習した。また、赤松一族でもある在田、広岡の両氏は赤松播磨守の子息を擁して山名氏に与(くみ)している。有馬右馬助も山名方に属しており赤松方は四派閥に分裂してしまった。
浦上則宗は政則を疎んじ、赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に家督を継がせようとして、浦上則宗、小寺則職、中村祐友、依藤弥三郎、明石祐実の五人が連署して室町幕府(足利義尚)に願上した結果、幕府はこれを諒とした。この事件で別所則治は歴史上に忽然と登場する。則治は境に隠棲中の赤松政則を擁立して密かに入京し、前将軍足利義政を頼ったのである。こののち浦上則宗ら赤松家臣は山名氏との戦いに敗れ、別所則治と同じく足利義政に救いを求めた。
播磨は再び山名氏の治世下に入る。足利義政の取り成しで政則と浦上氏らは和睦し播磨奪回に向けて共に行動を起すのである。文明十六年赤松勢は京都を発し、摂津有馬郡に留まり翌十七年播磨に入った。政則は三木郡三津田、加東郡小田光明寺と転戦し東播磨を制圧し、阪本城を拠点に西播磨に居据わる山名氏と対峙した。以後数年間、赤松氏と山名氏は小競合いの合戦を繰り返し、互いに力を消耗し疲弊していくのである。その寸隙を縫って別所則治は着実に且強大にその力を蓄えていくのである。播磨の名家、三木別所氏は赤松三十六家の中でも最大級の城主であり、その祖は既述のとうり赤松則村円心の兄、敦光円光である。別所円光として別所氏を開くのだが、やがてその子孫は東播磨にしっかりと大勢力を張るのである。

当時の東播磨の中心はやはり三木であった。この地は嘗ての三木群であり非常に不便な地であったかのように思えるが、その実そうではなく古い時代においては交通、流通の要衝であったのだ。山越えする道の傍らには奈良時代を彷彿させる古い歴史を刻む名刹、伽耶院や蓮花寺などがあり、また城塁や櫓、砦などが築かれていることは、とりもなおさず山間部の道でありながら最も古い道路であったのである。そして修験者や武士や商人の連絡路であり生活道路であった。 では、三木合戦当時の三木の街道はどのように発達したのであろうか。
海岸沿いには西国街道が通じ、明石、高砂などの大きな町もあったが、三木には別の街道が通じており交通、物流の要衝として既に都邑を形成していた。古くは源義経の軍勢が使用したであろうし、また戦国擾乱の世には別所軍の策戦道路として、また秀吉の三木城攻めを策した街道として旗幟が翩翻とはためき甲冑、具足の響きを轟かせた道であろう。 三木合戦当時別所氏が東播の守護職として君臨したころの三木の街道を見てみよう。
「三木戦史」によると、「京洛の地が一天万乗の至尊の在します地であり、室町幕府またこの地に有りしより、政治上、軍事上、その他文化や交通や、一切の中心が京都にあったことは勿論である。しかし京都より西国方面への交通、それも山陽、南海、西海の各道に通ずる交通は、主として三木の城下を過ぎ、国包より都染の渡しにでて加古川を渡り、志方を経て姫路方面に達するを常とした。(中略)其の頃姫路より志方、三木、有馬通りの方、本道の様子に相見へ候。今に此道所々に一里塚と称するもの残り候。姫路より加古川、明石の道も、本より有之候得共、大阪御城並びに姫路御城装麗に御落成の頃に、道直しなど有之、広く本道と相成候様子に相聞へ候」と、古記録にあるとうり、西国街道の要衝であったことが覗える。当時はこの三木の地が交通の要衝として頻繁に利用された。赤松氏が別所氏を三木の地に封じて播磨東部を支配させんが為に本城を構えた真の意図は、これらの街道が非常に重要な役割を担っているかという確かな証左でもあろう。
西国街道は、瀬川宿(箕面市)から西宮━兵庫━明石━加古川を経て姫路へ通づるのであるが、湯ノ山(有馬)越えのルートも中世には多く利用された。中世期における三木の城下町を中心にして、その街道を辿れば、細川の桃坂を通り衣笠城下(吉川町)を経て渡瀬城、金会城に通じる吉川街道。御坂━三津田━衝原━藍那に通じる山田街道。板宿から明石に通じる白川街道。三木城下より福中城下を通って明石川に出る明石街道。また、三木城下より国包を通り、都染の渡しを経由して志方━姫路への姫路街道。三木より小野━法華口━組野━須加院を通った置塩街道。姫路より手野の渡しを通って青山川(夢前川)を越える因幡街道。手野━青山━川西━飾西━戸倉の峠を越えると若桜へ行く若桜街道。因幡街道といえば、宮本武蔵が幼いころを過した大原、平福があり、宿場町として通過する飾西━林田━柴崎━千本━三日月━平福━大原━坂根━駒帰━智頭━用瀬が、鳥取の城下にでる因幡街道である。その他、室津街道、書写山道、竜野街道。赤穂街道を経て山陽道備前路へ。西国街道攝津路、三田城下から切詰峠を越えて多田院から伊丹城下へ━尼崎へと延びる。このほか無数に延びた街道や間道は、戦国時代における重要な軍事街道でもあったのである。
三木城主別所氏の領有範囲は東播八群に及んだが更に攝津の一部(神戸市北区山田町衝原一帯、箱木千年家)もその勢力範囲に包含され、その勢力下における地域内及び誼を通じて行動を共にした豪族の領地との間には幾条にも張巡らされた脇街道や間道があった。本家赤松氏と行動を共にした別所氏が、支城に使者を走らせた山間の小道は別としても、三木城下を通じた街道は、古い宿駅としては東播随一、と云うよりも西国一の街道筋であったと思われる。
有馬口を中心に四方に街道が通るがその中で湯山街道は北と南と二本ある。通常南が陽となり表になるのだがここでは程よく整備された北の道が表街道と呼ばれた。北の街道は、有野━八多━淡河━を通り戸田から志染を抜けて宿原、大塚に出る。、また南の街道はくねくねの狭い山道で、有馬口から唐櫃━大池聖天━箱木千年家━呑吐(現呑吐ダム)を経て御坂で合流するのだが、何れにしても湯治を楽しみにする人々がこの街道を利用するため、その名がついたのである。また西国からは大阪を回らずダイレクトに上洛できるため商人や武家の多くがこの街道を利用していた。西国からの場合は上に記した逆のルート、畢竟三木城下(現滑原、大塚、宿原、三津田)を貫きそして淡河経て有馬に至るのであるが、湯山街道の宿場町でもあった淡河は豊臣秀吉によって整備されたが、この時に秀吉の命を受け宿場町建設に貢献したのが村上喜兵衛であった。この功績により淡河の大庄屋を勤めるようになり、徳川幕府になっても大庄屋職は変ることなく続き、本陣職として淡河宿の中心となっていたようだ。いま、その本陣跡は残ってはいるが嘗ての繁栄の面影はなく朽ち果てたままになっているその傍らに「湯乃山街道淡河宿本陣跡」との碑が建っていた。

加古川城軍議決裂 別所氏反逆へ
秀吉は、上月城を陥落せしめると同時に毛利に靡いていた但馬に攻め入り、数日で竹田城、八木城を落とし南但馬を攻略している。毛利の影響力が及んでいた播磨と南但馬を秀吉が平定するまでに、僅か四十日しかからず、短期決戦で完全勝利した背景は、取りも直さず別所、小寺、黒田ら播磨の諸将が秀吉を援軍したにほかならない。この「四十日戦争」を経て、秀吉は信長に報告のため一旦上洛する。畢竟本格的な中国攻略は、翌天正六年三月からとなるのである。そして、秀吉二度目の播磨入りで、別所氏にとっての悲劇が待ち受けていたのである。

二月二十八日、秀吉率いる勇壮華麗な軍団が、人々を驚嘆させながら、加須屋(糟屋)武則の居城、加古川城(現称名寺一帯、加古川町本町313)に入った。秀吉は播磨の諸豪族を召集し中国の毛利攻めに対する軍議を開いた。播磨の諸将は先を競ってこの本陣に出仕し秀吉に面会をする。半年前、第一次の播磨入りと比べ、諸将の秀吉への傾斜は更に強まっていた。三木城からは、別所長治の執権であり名代でもある別所山城守吉親、家老の三宅肥前守治忠を派遣した。この加古川城での会見の結果が三木合戦の発端となったのである。織田信長とも良好な関係にあり、対毛利戦の先陣を務める筈の別所氏がこともあろうに信長麾下、秀吉に反することになってしまったその理由は幾つか挙げられよう。
「播州太平記」に、三木城主の代理である吉親が秀吉に対して別所氏の家柄と代々の軍功を縷々語り、長談義に及び秀吉の不興を買った。また、三木に帰城した吉親が、「織田方に組して軍功を積んでも、毛利氏を滅ぼした後播磨の地は秀吉の所領となるであろう」。と説いたのを見ても、織田の傀儡政権を危惧したからにほかならない。亦、「別所長治記」では、老臣の三宅治忠が長口上を振い、その陣立てや兵法の講釈を長々と垂れ、秀吉の不快を買ったことも見逃せない。その席上秀吉は、「そなたたちへの下知は、大将(信長)が出す」と、厳しい表情で嚇怒せしめた。と記している。別所氏が信長への敵対姿勢を鮮明にした背景には、赤松円心以来の名家と自負する別所氏の過剰なまでの自惚れと、信長の持つ軍事力の過小評価、認識不足を含めた情報収集力の脆弱さであろう。それの裏返しが毛利軍への過大評価であった。名門の別所氏からすれば家柄のない秀吉に横柄な扱いを受けたその意趣返しの軍議決裂ではなかろうか。
別所反乱のもう一つの背景は、二人の家臣の状況判断の誤りと同時に、別所家固有の事情もあった。長治の妻の実家、波多野氏の居城である八上城と亀山城が先年織田方に落とされたという遺恨もあった。また、浦上、尼子氏との確執も尾を引いていた。赤松一族の筆頭頭と自認する別所氏が秀吉の軍門に下るという抵抗感も多々あったのである。長治は、そこに「反乱の大義」を求めた。事実、赤松━別所に連なる東播磨の諸将の大半が長治についた。御着の小寺、英賀の一向宗徒ら五十氏にも上る城主が三木に兵を差出した。その数七千五百、秀吉軍に拮抗する数である。この時、黒田官兵衛は長治に対して織田方に反旗を翻してはならぬ、と再三にわたって説得している。官兵衛の「時代を読む」目、情勢を判断する的確な目は後、諸葛亮孔明に匹敵する軍師との評価を得るのだが、この時既にその策略家の片鱗を覗かせている。
加古川城における秀吉と別所側との会見は決裂した。三木に帰城した吉親、治忠は家中の重臣を召集し大広間において軍評定が開かれ、席上吉親は一同を前に会見の経緯を述べ長治に言上した。軍評定の結果、長治は開戦やむなしを決意し、ここに秀吉の兵糧攻めによる三木合戦の幕が、事実上落とされた。 昨日まで有力な味方であり、毛利討伐の先陣役であったあろう別所長治が、軍備を整えてこの比類なき天下の堅城、三木城に陣取った。広範囲に及ぶ城郭内には、多くの曲輪を備え、所謂城下町をも含めた城地は美嚢川と塁豪をもって取囲み、東播磨の各支城から召集した一族一門の諸将が各要所を厳重に固めた。

秀吉はこれを聞き及び、急変した別所氏が何の恨みによる謀反かと訝り、直ちに加古川城を撤収して書写山上に陣を移した。衆徒、僧兵を立退かせ、本堂北側高地に奥まった一角にある十地坊に本陣をしいた。秀吉は別所方の謀反について、兼ねてより親交のある吉親の弟であり執権職の別所重棟の真意を糾した。秀吉の「お前も敵か」との問いに重棟は「斯様の企ては八幡大菩薩に誓っても夢想だにしなかったこと、全く面目ない」と、ひれ伏し涙したという。東播八群を守護する別所氏には、歴代の家格とその力を以って播磨全土における戦禍を避け、領土の安堵を念じたのだが、加古川糟屋武則の居城における会見の決裂が仇となった。別所の後押しで、戦わずして播磨を手中にすることが命題の秀吉は、重棟を通じて幾度も説得を試みたが、長治はこれを聞き入れず、心を尽くし理を尽くした最期の説得にも長治は「幾年に亘る毛利との交誼があり、信長殿がどのように説得しようが、その約定を反故には出来ない。この上は一戦を交え、城を枕に討死にする所存である」と、返答した。この期に及んで双方為す術も潰え、和睦の道は閉ざされた。もはや躑躅(てきちょく)は許されず、秀吉は陣容を整えて三木城攻撃を開始した。時に天正六年三月二十九日早朝、美嚢川中流域上津の僅か上流、イセコダ(伊勢講田)に物資を満載した一艘の船が薄靄のなか投錨停泊した。秀吉方の軍船であった。

三木合戦を考察する時、もし…であったら戦は避けられたかも知れない。とは、よく言われる。
その一つが長治の父、別所安治の弟吉親、重棟二人の関係である。よく三本の箭に准える如ように、毛利輝元に対する吉川元春、小早川隆景兄弟のように鉄の結束があれば別所氏の諸国に対する影響力は更に増大し家運も向上したであろし、織田信長との衝突も回避できたかもしれない。今一つは戦乱の世を見る「目」であろう。畢竟長治の父安治が三十九歳で鬼籍に入ったため長治は若くして(13歳)家督を相続し、城主に就いたものの若い城主長治には世を治めることはとても出来ず、当然乍「執権」を置かざるを得ない。それが長治の叔父である吉親と重棟であった。この二人の確執が別所家を滅亡に導いたとする見方に私は些か懐疑的だ。寧ろ後者の諸国の情勢を的確に判断できる人材が長治を含めて別所家には居なかったのではなかろうか。否、黒田官兵衛のような家臣が僅かではあるが居ただろう。しかし、名家ゆえに能力はあっても新参者は登用されない、そういう保守的な土壌であったことは容易に察せられる。然るに信長、秀吉のように旧来の遣り方、因習の殻を破り、斬新な感覚と圧倒的な軍事力で天下を統一せんとする勢力には、喩えそれが名家豪族の別所氏ではあっても「新しい力」には、諍(あらが)いきれなかったのである。

長治の叔父重棟と信長についての関わりはどうであったのであろうか。
室町幕府将軍足利義昭を急襲した三好の残党を討たんがために入京した織田信長は、近隣の諸国、諸豪に兵力集結を呼びかけた。この時、三木城主別所安治(長治の父)は、弟の重棟に手兵五百人を与え、上洛し信長を援軍するよう命じた。参戦した重棟は京都白川の合戦に武勲を立て、その面目を躍如した。帰城した重棟の影響力は各段に向上し、家老として重責をこなした。然しそんな中、元亀元年(1570)城主安治は遽しく病死してしまう。戦乱の世にあっては城主の死は即ち敵城に隙を与えることになり、畢竟時を置かずして長治十三歳で家名を相続することになる。そして吉親、重棟は執権となり、長治の後見役となる。後見役になった重治は幼い城主長治を連れて京都相国寺で信長に拝謁している。これを機に同年十月十二日二条妙光寺で信長に会い(信長公記)、他の豪族以上の誼を深めた。続く同年十一月十二日、叔父二人と京都で信長に伺候している。亦、天正四年十月伺候、天正五年一月十四日京都二条妙覚寺で信長と謁見とある。(信長公記)。同年一月二十八日信長は長治に太刀一腰、馬一疋を贈っている。(秦家文書)。斯くの如く夫々の催事には別所長治は織田信長と交誼を深め、良好な関係を維持した。そして、三木合戦が始まる寸前まで信長に組していたのである。然し、一方中国の毛利氏とも深い間柄にあり戦乱の世にあってバランスの取れた外交を展開し平和な領国であった。民百姓、士卒の安寧を願い、忠勤に精励した吉親は後見役、執権としてその職責を全うしたといえよう。また、重棟としては、信長との親交もあり、信長に対する忠誠と、別所一族にたいする忠義と枳棘の狭間で悶絶し、遂に別所一族から離反するに至り、秀吉の軍門に下ったことは、万死に価するほどの苦しい選択であったであろう。中国平定の大義を翳(かざ)し、総大将の名のもと、成り上がり者秀吉の傲慢な振舞いに対して、信長の顔色を窺い、秀吉の強引な行動を和らげて、別所氏との開戦を回避せんが為奔走した重棟の行動は領国のみならず諸国の安寧を願った武将として、戦国の世にあって時代の情勢を的確に見極めた人物だといえよう。然し三木合戦は勃発した。重棟の努力は力及ばず水泡に帰した。播磨の地の安寧を祈念して、侵略者(秀吉)に対す領土防衛策を講じた者(長治、吉親)と民の変らぬ安堵と領土の安泰に対する施策として強者に追従を余儀なくされた者(重棟)。両者の存念が予期せぬ結果を招き、交わることなく斯くも悲惨な、天下にその名を残す戦いの発端となったのである。劃して瞋恚の炎(ほむら)は拡大の一途を辿るのである。

余談。もし、三木合戦が避けられていたら…。別所長治は秀吉と同盟を組み、早い時期に播磨全土、丹波、但馬を多くの犠牲と多量の血を流すことなく平定したであろう。そして中国の盟主、毛利氏も容易に…。それほど別所一族の力は強大であったのである。明智光秀の謀反も起っていなかっただろうし、信長政権は安定していたかもしれない。当然乍、秀吉の天下はなかった。そう考えれば秀吉にしてみれば、この三木合戦は秀吉天下人への重要なステップであったのか…。

長治、藤原惺窩居館(細川城)を攻める
美嚢川の上流に位置し、緑豊かな田園や山並みが広がる細川庄桃津(三木細川町)は、美嚢川が岩壷神社真下より、その支流として東方丹生連山を源流とする志染川と、一方、口吉川の隣り神戸市北区大沢神付を源流とした美嚢川本流の吉川川とに分岐している、その吉川川が、それより少し南の小川川と合流する豊地附近の谷間の小盆地に発達したところである。嘗ては川舟が行き交い、京へ上るにも近く街道筋も賑わいを見せていた。藤原惺窩は、そんな豊かな川、山そして豊穣な荘園を領する冷泉参議冷泉為純の第三子として、高篠の丘陵地の間に設けられた「内裏屋敷」で生れている。
私がここを訪れたのは一昨年、三月下旬春酣(たけなわ)、蓮花寺に立寄ったその道すがらであった。館跡には細川村教育会が大正十二年に建立した藤原惺窩像が立っている。辺りは長閑な田園風景が広がり、惺窩像の両脇に、晩秋には紅色のグミに似た実をつける「さんしゅうゆ(山茱萸)」の木が黄色い花を鈴なりにつけ、それに呼応するようにヤブ椿の赤が緑の葉の間から顔を覗かせる。少し離れて茶花としてよく使われる詫助が、そして東大寺の修二会を彷彿とさせる良弁椿が糊を蒔いたような斑入りの花を咲かせている。暫し椿に見入っていたその足元に土筆が少し頭を出している。やはり奈良の「お水取り」が過ぎると春が一気にやってくる、季節の移ろいと確かな足音とともに…。数日中には桜も咲くだろう。往時を偲ぶよすがは惺窩像以外何も無い。然し、えもいわれぬ歴史の香りがそこはかとなく漂っていた。
惺窩が生まれた戦乱の余燼が未だけぶる永禄四年(1561)は、畢竟この年川中島の合戦があり、前年には今川義元が桶狭間の合戦で信長の為に討死にしている。亦四年後の永禄八年には松永久秀が将軍足利義輝を誅殺するという、まさに戦国時代の真只中であった。

藤原惺窩、名を粛(すすむ)、あざ名を斂夫(れんぶ)といい、惺窩は号である。他に柴立子、北肉山人、昨木山人の号があり、時には東海狂波子、惺々子、妙寿などと称している。そして棲居を妙寿院、惺斎、竹房、竹処、竹処堂、松下などと銘し、これらは、時としてそのまま惺窩の別称となったようである。これら別称には夫々謂れがあるのだが、ここでは柴立子(さいりゅうし)の因を辿ってみよう。柴立子の柴立は『荘子』の達生偏に仲尼(孔子)の言葉として「入りて蔵(かく)るること無かれ。出でて陽(あら)はるること無かれ。其の中央に柴立せよ」というものから由来する。意味としては、入るにも出ずるにも無心にして枯木の如く動静の中に立つ、の意である。物事に囚われぬ荘子の態度を表しているので、それに共感しているところに、惺窩の心の姿勢が覗えよう。
幼少の頃より神童とよばれ、七、八歳 の頃より、姫路竜野の景雲寺九峰成長に付いて心経や法華経を学んだ。そして、剃髪し、名を「宗舜」と改め禅僧として修業することになる。(太田青丘著・藤原惺窩)

この頃すでに漢文漢詩に秀(ひい)でていたという。父為純は、古くは藤原鎌足の流れを汲み、鎌倉時代において、第一等の家人藤原定家十二代の孫である。代々三木群細川庄に住み、歴代の家系を継承して来た公卿の家柄である。もともと冷泉為純は別所の傘下にあり、その庇護を受けていた。ところが秀吉の三木城攻めのとき、懐柔策により素早く秀吉に味方した。別所長治から中国の毛利勢に荷担するよう再三の呼びかけがあるも、為純、為勝父子はこれを拒否するに留まらず、加東の東條城主依藤太郎左衛門と手を結んだのである。別所長治は、冷泉為純の純粋な政治、文学への情熱と、卓越した能力を知悉するだけに、為純の驕慢に失望し深い憤を感じた。この細川の為純居城周辺には別所氏の一族である細川中村の中村城や馬場の衣笠城などは、本城の三木城には遠く、また豪族である渡瀬城とは遠隔にあり、これらの一族の根城が危険に晒されるのは必定であると判断した吉親、重棟、家臣らは嚇怒し、天正六年四月一日細川の館を焼討ちするに及んだ。別所軍は兵を率いて桃津の細川城を急襲し一気に落城せしめた。このとき、危く難を逃れた惺窩の父為純は加東の嬉野まで落ち延びるが、山越しに見える館の煙を見て、最早、これまでと自刃。依藤太郎左衛門も後を追い、自刃している。
播州竜野の景雲寺で修業の身であった惺窩(宗舜)はこのとき十七歳。この訃報を聞き、姫路の書写山に陣していた羽柴秀吉に会い、父為純の仇討と家名再興を願い出るも、秀吉に「時期到来を待つように」と諭された惺窩は、母や弟妹を伴い京都に上り叔父泉和尚のいる相国寺を訪れ仏教と儒学を学ぶことになる。
惺窩の聡明、俊秀ぶりを揮った十四歳の時の詩をあげてみよう。
逆旅、正(正月)ヲ迎へテ友ヲ懐フ時、
君微(な)カリセバ誰カ慰メン野生涯。
夜、闌(たけなわ)ニシテ相話ス紗?ノ月、
半バ是レ梅ヲ評シ半バ是レ詩。  (
「藤原惺窩」著者、太田青丘)

別所軍の奇襲
長治が細川の藤原為純、惺窩父子の居城を焼討ちしたその頃、時を同じくして秀吉軍は三木城を包囲すべく着々と準備を整え、先ず大村坂に大軍を展開し、布陣した。この情報を逸早くキャッチしていた別所方は幕下の諸将と連絡をとり敵を挟撃せんとした。
では、その挟撃作戦というのはどのようなものであったのであろうか。
この頃の美嚢川の渡航は既に秀吉軍によって制限させられていた。おっつけ、高砂まで行くとなると、加東郡河合庄に出て、それより川舟に乗り加古川を下る以外ない。別所方はこのルートを使い、高砂城主梶原平三兵衛景行に援軍を依頼するべく使者を遣わした。景行は言下にこれを承諾した。使者はその足で野口城に行き、更に神吉城に出て諸城にその旨を伝達し援軍の手筈を整え無事三木城に帰還した。天正六年四月、日没より軍勢を率いた別所方は秀吉軍が守る大村坂の陣営に夜襲をかけたのである。
各支城の援軍は打ち揃い、高砂城梶原景行は足軽三百余人を従がえ野口城、神吉城、志方城其々都合総勢一千余人が河合庄に集結し準備を整えた。指揮は景行が取り、松明もともさず闇の中を静かに行軍した。昼の疲れで寝静まった秀吉陣内は、まさに闃然(げきぜん)として静寂のなかにあった。櫛橋伊則が先陣を切り、どっと切って入った。続いて二陣の長井勢、神吉頼定がかねて用意の松明に火を翳せば、不意を衝かれた秀吉軍は慌てふためき逃げ惑うばかりであった。三木城からは、援軍の火の手を合図に長治弟の友之を大将とした一千余人の精鋭兵が大手の門を開き滑原の坂を押し進み、三木川を渡って大村坂目指して突進した。背後より挟み撃ちに攻められた秀吉軍は為す術もなく逃惑い、裸のまま戦う者など大混乱を来した。意のままの勝ち戦に、家老三宅治忠が打ち鳴らす引き揚げの鉦は闇を劈いた。別所勢の夜討ちは功を奏し、本城に凱旋した。ここに三木合戦の火蓋は切って落とされたのである。

別所軍の奇襲に大敗した秀吉は、三木城兵の意外な手強さに戦略を練りなおすべく、一先ず残兵を率いて加古川城に退却し、間髪入れず黒田官兵衛の居城姫路城の北西にある書写山に登り、十地坊に入って軍議を凝らした。秀吉はまず浅野長政、中川清秀ら腹心の武将を召集し、播磨の地理に通じた者に絵図面を作らせた。別所方には多くの支城がある。それら支城から攻撃してくることを恐れた秀吉は、先ず支城を陥落させて、それより本城を兵糧攻めにする以外方策はないと結論付けた。姫路書写山白山の十地坊における軍議は、本陣を三木城を見下ろせる平井山に設営することであった。そして、秀吉自ら陣営に起居し、ここを最前線基地として三木城の包囲網を布き、糧道を断ち、長期戦によって三木城の自滅を誘う策戦を取ったのである。この策戦はとりも直さず、別所氏と対峙(大村坂の夜襲)した秀吉に大きく恐怖心を齎した証左であろう。この作戦は、軍略兵法家竹中半兵衛の策謀であったと言われているが、大軍を率いて遠征の途上にある秀吉にとって、敵の領地内に常時野営、駐屯することは、三木城を兵糧攻めにすることよりも、自軍の食料、武器弾薬、負傷兵の搬送、補給、連絡に頭を痛めたに違いない。まさに戦争は「兵站」、後方支援の優劣で勝敗が決することは現代の戦争においても同じである。秀吉の「いくさ上手」は、後方支援を実に効率よく、スムーズに遂行したことである。とくに遠方への遠征、派兵の場合は沿道の農民までも狩り出している。それほど秀吉の頭には戦闘よりも「兵站」に重きを措いていたのだ。因みに兵員十万人の大軍としよう。遠方の場合、戦闘員は三〜四万人であとの六〜七万人は小荷物隊で、所謂運搬人夫である。このように秀吉は、「後方支援」の重要性を誰よりも知悉するがゆえに別所氏に対して「兵站」を断つ作戦、「兵糧攻め」を敢行したのである。

暫したじろぎ蟠踞した秀吉は、野口城を落し入れた余勢を駆って愈々本格的に三木城攻略に乗出した。然しその矢先毛利氏の大軍が播磨に入り、秀吉と好誼の関係にある尼子氏の守備する上月城を攻撃した。この毛利氏の突然の出兵は、別所氏との盟約が締結された上での行動ではあるが、毛利氏としては元就以来の仇敵である尼子氏が主家再興の旗幟を鮮明にし、上月城に立て篭もったので、これを討つことが当面の使命でもあったのである。もとより織田軍は播磨に入り姫路までも進軍してきており、毛利氏としては別所氏の援軍もさること乍、寧ろ自陣のディヘンス面において尼子氏の絶滅を図ることを優先させた。このことは毛利氏自身の危機を回避させる手段でもあった。出鼻を挫かれた秀吉は、早速三木城の攻撃態勢を一旦中止し上月城の尼子氏を助けるべく近くの高倉山に布陣するも、各方面に兵を分散していたためにこれを纏めることが出来ず、自軍の数倍の毛利勢に手を拱くばかりであった。多くの援軍を予期していた尼子城は五月末になると城内の食糧、水は枯渇した。信長の嫡子信忠が急遽京都から馳せつけたが、充分な兵卒を確保できず、信長、秀吉の指示を仰いだ。その結果、秀吉軍は高倉山を撤兵することになる。これは何を意味するか。畢竟信長と秀吉の作戦は、尼子一党を見殺しにすることであった。秀吉の冷徹さが覗い知れよう。この戦いの後、天正六年六月二十一日、織田軍と毛利軍との間で両軍入り乱れての大激戦が展開されたが、この戦いは結局勝敗なく引き分けた。この時の仔細を竹中半兵衛の子重門が『豊鑑』にこう記している。「今度上月城へ旗をよせさせ給はば毛利家の根を絶ちて亡失、中国筑紫までも信長卿の御心のままなるべし。秀吉は数まへられぬ身なれば、とまれかくまれ、鹿之助を捨て給いしは、西国のはてまでも御名を流し給ふ口惜さ…」と。

秀吉高砂城を攻める
秀吉は大軍を率いて別所氏が守る各地の支城である野口城(現野口神社の西、段丘上南部の先端周辺)、神吉城、志方城、端谷城を相次いで陥落させた。そして愈々三木の本城を包囲すべく準備をはじめ、間髪を入れず三木城と軍事、経済、情報連絡面において最も関係の深い高砂城の攻撃に着手した。高砂城主梶原景行は、別所氏にとって同盟であり無二の味方である。中国毛利からの兵糧、物資の輸送は飾磨を経て加古川を遡行し、支流の美嚢川を船でのぼって運ばれるのだが、これは偏に高砂城からの支援あってこそなし得ることであった。秀吉にしてみれば高砂梶原氏の存在が別所攻略においてどれほど障害になり、脅威になるか知悉するがゆえ、軍船を加古川の今津(加古川河口右岸と高砂とにある)に配備し、三木、高砂の海上、美嚢川の往来を監視し、軍兵を置くことによってその通路を封鎖したのである。この手だてを講じたのち、秀吉は高砂城に総攻撃を仕掛けた。別所方からの援軍もままならないと察知するや景行は、すぐさま早便を仕立て当時備前に陣していた毛利輝元に救援を要請した。輝元は快諾し、直ちに軍勢を纏め兵船に人馬、物資を載せ秀吉軍の防備の手薄な飾磨の浦を目指した。上陸したのち、陸路高砂城救援のため進撃した。高砂城兵と毛利軍との挟撃にあった秀吉軍は多く死傷者を出し遂には退散を余儀なくされた。平井山に陣した秀吉は高砂城における自軍の惨敗に部隊長を更迭した。心気一新さらに兵を増強し、中務氏家をはじめ羽柴長門守や黒田甚吉らを室津、坂越、網干、飾磨の海上へ派遣して番船による敵船の監視体制を強化するとともに海路を完全に封鎖した。同時に増強した部隊を大挙編成し、猛攻撃を敢行したのである。これによって三木城への兵糧、物資の兵站は完全に閉ざされた。
毛利の援軍は直ぐには期待できず、ことに平城である高砂は長い篭城に堪えることは難しい。さすがの城主景行も高砂城を放棄し、一族将兵は尽く三木城に送り込んだ後、自らは剃髪し鶴林寺の傍に居したと伝わる。しかし、それ以降の足跡は記録にはない。

別所軍平井山本陣を衝く
秀吉が、ここ平井山に本陣を設営したことは、三木合戦を有利に導く為の最善の選択であった。
地理的要件、後方支援、軍事的要件すべて満たしているといえよう。しかし、この判断は秀吉には到底できない。軍略兵法家竹中半兵衛、黒田官兵衛らの卓越した軍事分析力に拠るところが大きい。
平井山の戦略的立地を見てみよう。まず、平井山本陣は二つの川に挟まれた丘陵地の高台にある。南側には丹生連山を源流とした志染川と、北側は、神戸市北区大沢町神付をその源流とした美嚢川とが岩壷神社下手で合流するまさにその肥沃な三角洲に発達した与呂木の東方高台が平井の山である。そして、実際に平井山の本陣跡に立ってみると、背後には細川の庄や吉川の庄が広がるものの、峻険な断崖が迫り、深い谷は防御にはうってつけであり、背後からの攻撃は不可能だ。東南には安福田、志染の里が展開し、また西方には三木城が見下ろせ、扇状に広がる平野は和田や鳥町までもが一望できる。そんな地理的双肩無比の平井山本陣である。別所方にしてみればこれほど攻め難い敵陣はないだろう。しかし、別所軍は仕掛けた。毛利方の援軍もままならない状況下にあって座して死を待つ訳にはいかなかったのである。
天正七年二月十日、三木城中において軍議が開かれた。上座に城主長治、次に弟彦之進友之、同じく末弟の小八郎治定以下宗徒の面々である。家老山城守吉親は、「先ず明日の合戦は、辰の刻(午前5時)より城を打ち出で、長屋屋敷に総勢を伏せ、荒武者を五、六百人に足軽を付加え黒田、保隅、岡村を足軽大将として川を渡り…云々」(三木合戦)と、この軍議は明日の平井山本陣を攻撃するための作戦会議だったのである。
あくる二月十一日未明、別所兵は二手に別れ進軍した。先陣の大将には家老の別所吉親、侍大将には別所宗治(吉親の弟)ほか雑兵を含め総勢二千五百余人。一方、後陣の大将には、別所治定(長治の弟18才)侍大将には、別所治時(吉親の弟)同三大夫、小太郎、ほか足軽大将には久米五郎忠勝以下六十余人など、選りすぐれた精鋭部隊都合七百余人が朝靄をついて平井山秀吉本陣をめざした。乾季に入り志染川の水量は減少したとはいえ、当時の志染川、美嚢川の水量は現在のそれよりもはるかに多かったのである。
如月二月、寒風のなかの渡川は人馬の体力を少なからず奪った。渡りきった先陣隊は、すぐさま東西両翼に陣を張り暫し呼吸を調え秀吉陣と対峙した。
一方、山上より別所軍の動きを具に観察していた秀吉は、間髪を入れず各将に伝令を飛ばし周辺要所々々に兵を配備、迎え撃つ態勢に入った。秀吉がここ平井山に本陣を布いた眼目が顕著にあらわれた瞬間だった。別所方の動きが一部始終見透かされていたのである。
別所勢は平井の手前、与呂木村の入り口で先陣、後陣と二隊に別れ秀吉の軍勢へ兵を進めたのだが、後続部隊も先陣隊と入替わらんばかりに山を駆け登り、勇猛果敢に秀吉の本陣を目指した。余りの素早さに一瞬虚を衝かれた秀吉は、弟の羽柴長秀に下知し、采配を揮った長秀は別所勢を阻止すべく自陣の兵を鼓舞する鉦を打ち鳴らした。敵味方入り乱れての鬨の声は四方一里の山々に谺した。屍は累々と重なり、草木のみならず池の水までもが朱に染まった。平井の山は今、修羅場と化した。激戦のなか、後陣の大将小八郎治定(長治の一番末の弟)は、群がる敵陣へ十文字の槍を振り翳しながら奮戦し、敵兵を薙ぎ倒さんばかりに暴れ回るも次第に力尽き、秀吉の近習武将らに遮られ、ついに樋口政武に討取られ戦死した。ときに治定十八歳の若武者であった。この若武者治定の死を知った側近の郎党十数人は、共に殉死している。この戦いは双方多大の犠牲者を出したものの、秀吉方よりも別所氏により大きな打撃となった。そして、この戦闘以降別所氏はずるずると後退を余儀なくされるのである。
大きな痛手を受けた三木城に食糧、物資を搬入しようと毛利輝元は、軍船を組織し明石魚住浜に上陸したものの、それら物資をどのようなルートで運び込まれたのかは定かではないが、いえることは、秀吉方の少なからぬ抵抗にあい、すべての物資が三木城内に搬入されることはなかった。この時期秀吉は既に法界寺から君ヶ峰にかけて砦、土塁三十近くを各要衝に築き毛利軍はじめ別所方の援軍を阻止するため街道、間道を厳しく監視した。しかし、網の目のように張巡らされた間道すべてを封鎖することは出来ず、寧ろ別所方の攻撃をしばしば受けている。
秀吉の苦戦を知った信長は四月十日、嫡男織田信忠らを三木に援軍を派遣したが三木城兵の頑強な抵抗にあい、跡部山の麓に陣していた織田七兵衛も苦戦を強いられた。その後、織田信忠は軍を翻した。有効な手だてもないまま三木城攻めを中止して御着の小寺政織の居城を攻め、御着城を陥落させたのち、岐阜に帰り信長に戦況の報告をしている。

丹生山燃ゆ
天正七年五月に入ると三木城中の兵量は愈々枯渇するばかりで、別所方は毛利氏に対して兵の派遣と食糧の輸送を懇願した。毛利氏は別所氏の再三の要請に応え兵員、物資を満載した軍船を明石の魚住に投錨させたものの、秀吉方の厳重な街道封鎖に軍船を急遽兵庫の港に回漕し、これら物資を花隈城に搬入した。これを聞きつけた別所方は早速丹生山(神戸北区山田町)に塁を築いて領民や兵を動員して山の尾根伝いに花隈城の兵站を確保した。当時、花隈城には、荒木村重の軍勢が居城しており、中間の丹生山南口を守備する高橋平左衛門。また、淡河定範は高橋と連絡を取合い淡河城によってその北を守備した。この兵量輸送に携わった者のなかには領内とりわけ山田町原野、衝原の寺家衆なども協力している。丹生山上にある明要寺はじめ近隣の寺々の寺家衆は累代恩顧に預かる別所氏の危急存亡を知り女子供、僧侶に至るまで秀吉軍の厳しい監視の目をかい潜り後方支援に従事した。ところがこれらの後方支援もやがて敵の知るところとなり、瞋恚の炎を燃やした秀吉は雑兵、僧侶、百姓、子供までも兵糧輸送の罪人として悉く殺してしまった。それでも尚輸送が続行されるのを知り嚇怒した秀吉は、弟の羽柴秀長に丹生山の焼討ちを命じたのである。秀長は兵卒四百余人を率い天七年五月二十二日深夜、山に火を放った。夜半より断続的に吹き続けた強風に煽られた火は瞬く間に全山に燃え広がり、砦をはじめ丹生山の古刹、明要寺の伽藍、庫裏、それに付随する建物は尽く灰燼に帰した。それでも鎮火せず、猛火は麓にまで及び三日三晩、炎と煙を吐くことを熄(や)めなかったという。(地元長老の話)

少し話はそれるが、丹生山(515m)には明要寺のほか水銀の女神・丹生都比売命(にぶつひめ)を祀る丹生神社がある。その参詣道脇に鉱山道があり、その昔には水銀の鉱脈があったことを物語っている。また、丹とは即ち赤土のことであり、赤土には水銀が含まれている。京都大学の調査でも丹生山、隣の帝釈山の赤土から水銀を検出したという報告がなされている。「播磨国風土記」によれば、神功皇后が新羅征伐に赴く時、爾保都比命が、私を祀ってくれるならば赤土を与えようと言った。その赤土を船体に塗って海上を渡り、新羅(朝鮮半島東側)を攻略したと言い伝えられている。このように水銀を含む赤土は貴重なものであった。この赤土を丹砂、辰砂と呼び、そして自然は水銀朱という化合質を生み出したのである。つまりは、『丹生』とは水銀を含む赤土を言うのであり、その発掘に携わった氏神が丹生都比売命であり、 また、水分(みくまり)の神とも言われている。空海が高野山に丹生神社を勧請したのをみても、空海の資金源が水銀であったことを物語っている。では、水銀朱と人類とはどのように関わってきたのであろうか。
水銀朱。天然に産する朱は辰砂(しんしゃ)、丹砂(たんさ)と呼ばれる水銀と硫黄の化合物で、硫化第二水銀といわれるものである。古くは中国の辰州から取れたのでこの名が付けられている。朱砂、丹砂、丹朱砂とも。現在では、天然の朱は産出量が少ないので、水銀と硫黄から合成しており、これを「銀朱」という。銀朱は水銀の化合物ですが、殆ど害はなく、純粋なものほど重たく、火や水にも強くいつまでも変色しないため、防腐効果や重要書類、落款(印泥)などに用いられている。朱は古代より幸福招来、高貴な色として尊ばれ魔除けの守護色といわれ、朱雀、朱印、朱夏、朱門の家というように「朱」がつく言葉も多くあるが、何れも目出度いとか、高貴なとかの意味合いを持っている。「朱」は「赤土」ですから、赤は「大」つまり、「人」と「火」の会意文字なので、穢れを修祓する朱は赤や丹と同じく神聖な色とされてきた。
火と言えば蹈鞴(たたら)製鉄が連想され、そしてその製鉄の神といえば天目一個命である。つまり片目、片足のカミなのであるが、製鉄や鋳造、鍛冶に携わる人々が何故目を潰したり片足を萎えさせたりしているのだろうか。私の父親も日本剃刀の鍛冶職人であったのでよくわかるのだが、火の温度を見極めるには片目の方が正確に見れるようです。但し、これは鍛造の場合でって、製鉄となると鉄の溶解温度が1400℃にも達する。その溶鉱炉や溶解炉の正確な温度は両目では掴めない。片目で正確な温度を掴むのである。おっつけ、片方の目が潰れる。また、片足でフイゴ(鞴)と呼ばれる送風機を強く踏むために片足が悪くなってしまうのである。

日本刀の原材料である玉鋼の生産(たたら製鉄)に携わっていた職長(村下)の一人は蹈鞴製鉄において最も重要な火の温度の管理について、このように話している。
「村下(むらげ)は年中火の色を見ておりますから、だんだん目が悪くなっていきます。火を見るには一目をつむって見ねばなりません。両眼では見にくいものです。右目にしろ、左目にしろどのみち一目で見ますから、その目がだんだん悪くなって、やがて60歳を過ぎるころになるとたいていは一目は上がってしまいます」。石塚尊俊「鑪と刳舟」
このように製鉄や加工に携わる人々が異型になるのは理解できるのだが、だからといってそれが何故畏敬の対象であるカミにまで昇華したのだろう。もっとも当時の鉄は金や銀よりも利用価値があり生活に密着していた刃物であり農耕具であり、生活用具であったからであろう。然しそれだけで金属の生産に携わる人々が神聖視されたわけではない。たたら製鉄、鋳造、鍛冶に共通するもの、それは「火」だ。何物も焼き尽くす赤く燃えさかる「火」は、日本人が最も畏怖し清浄を齎し悪霊を追い払う聖なるカミの対象であったのだ。水銀朱、酸化鉄(ベンガラ)の赤、そして火の赤。これらは現在に至るも日本人の体の中に連綿と流れている「根幹」というべきバックボーンではないだろうか。銅や鉄で造られた剣や刀、鏃などの武器は、石で作った武器よりも格段に高い殺傷力をもち、人や動物を簡単に殺せた。研ぎ澄まされて妖しい光を放つ金属制利器に驚き畏怖した人々は、その利器を人間に災いを齎す悪霊を追い払い、退治する聖なる呪具としても用いた。死者に悪霊が取り付かないことを願って枕辺に置く「枕刀」はその象徴的な例である。(淡海の文化財:埋蔵文化財センター)

山岳寺院と鉱山師
山岳寺院(標高千〜三千メートル級)のなかには猟師が自分の生業とする「動物殺生」の戒めに目覚め寺院を開いたという伝承がある。また、山の神を祭祀する司祭者であった猟師が修験者(山伏)などに自分の聖地と祭儀を譲った。とか、猟師が、山中で不思議な現象に遭遇した場所や霊体を発見した場所に僧や修験者によって寺院とされて発展し、創始者とされたとする説などがある。これら山岳寺院開創伝承のなかで、猟師が、山中で光り輝く物体を発見し、寺院を開いたという伝承が多くあることです。この光り輝く物体とは、寺院の開創者は、これを仏像の光明であるとしているが、一方この物体は金あるいは水銀、鉄鉱石、黄銅鉱などの鉱物資源であるとみる学者もいる。寺院を建立し維持するには大きな経済力が必要で、とても猟師だけでは手におえない。そこで鉱山師の経済力、寺を建立する土木、建築技術、道を切り開く測量技術、労働力など、さまざまな総合的な技術と組織力を有していたと思われる。各地の霊山や霊峰で修行した行基や空海といった僧が、溜池を掘ったり、灌漑用水路を敷設したり、橋を架けたり道路を通したりしているが、これらの土木事業を土木技術者でもない僧が直接携わったとは考えにくい。鉱山資源の多くは山中に存在する。採掘にはいろんな設備や施設を建て、山を造成したり鉱石を運び出すための道を必要とした。つまり、山岳の霊場は即ち鉱物資源の包蔵地であり、採掘場であったので、ここで修業する僧たちが、霊山周辺で働く技術者を配下におさめ、いろんな土木事業を行いつつ仏教勢力の拡大に利用したと考えられる。既に述べたように、空海が高野山に金剛峰寺を建立するにあたり、丹生神社を勧請したのは、空海と鉱山師のかかわりを端的にあらわしてはいないだろうか。空海の辿った足跡を検証すると、殆どが鉱物資源を包蔵した山岳であることがわかる。河内の国には、早くから鋳物師をはじめとするさまざまな技術者が定住していたとは、史料や遺跡などによって知られている。鋳物師のなかに、メッキ(鍍金)に従事する者もいたであろう。河内の長者は、この鍍金を生業即ち金銅製品を売買する商人であった。そして、それらを支配していたのが物部氏であり、秦氏などの渡来系の豪族たちなのである。私の郷里、三木には「跡部」という大字があるのだが、やはり物部氏の流れを汲んだ裔であるとみられている。

水銀朱に話を戻す。古代エジプト王家の印章にも天然の辰砂を顔料として使用しているし、中国でも紀元前から朱を不老不死の仙薬として金、銀に並ぶ価値あるものとして珍重された。また、四世紀から六世紀にかけての六朝時代には既に朱肉や黒肉が使われている。日本では、石器時代の縄文式土器や弥生式土器にその朱彩文を見ることができるが、それには酸化鉄、つまりベンガラの丹ばかりではなく、明らかに天然朱を用いたと思われる。また、島根県の加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸からも朱が付着していたし、三十二面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳(奈良天理市)の石室北側の漆膜は朱で挟まれていたとの報告もある。吉野ヶ里(佐賀)遺跡においても墳丘墓のカメ内全面にかけられていた真っ赤な水銀朱が使われていた。弥生後期の邪馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印とともに贈られたという「真珠」も、この水銀朱だったとの見方(近藤喬一山口大学教授)がある。
また、考古学者で顔料研究袈の本田光子氏によると、水銀朱は長寿を願った秦の始皇帝が方士・徐福を東方に派遣したのも「丹」を求めたためといわれるが、吉野ヶ里のカメ棺内の水銀朱は、下部に数ミリから1センチほどの厚さで堆積、内側に塗られていた痕跡もあった。これほど大量に水銀朱が使われた弥生時代のカメ棺は、これまで北部九州の6遺跡の「王墓」「王族墓」に集中している。 中でも、吉野ヶ里遺跡の水銀朱の量は、同時期の「伊都国」「奴国」王墓クラスで、この3遺跡の時期は、その前後に比べ、良品質の原石を用いているうえ、粒がごく微小になり精製技術が高度という特徴がある。当時、わが国にはそのような原石がなく、精製技術も確立されていなかったことから、本田さんらは吉野ヶ里の水銀朱も、朝鮮半島での漢の直轄地・楽浪郡を通じて寄贈され、被葬者の黄泉(よみ)の長寿を祈って遺体を覆う形でまかれたもの思われる。また、兵庫県教育委員会よび洲本市教育委員会では、二ツ石戎ノ前遺跡の発掘調査を実施しており、旧石器時代から弥生時代・鎌倉時代の各時代からなる複合遺跡を調査した。なかでも、弥生時代後期前半(紀元1世紀、約2000年前)の竪穴住居跡から水銀朱の精製に関する遺物が出土しましたので、この遺跡は当時極めて貴重であった水銀朱の生産・消費活動に密接に関わる遺跡であったことが明らかになりました。この水銀朱精製関連資料の発見は、阿波・畿内・吉備の「朱の道」の流通経路を知る上で興味深い例となると同時に、淡路島が中継点になっていたことを示す貴重な成果といえる。
では、ニツ石戎ノ前遺跡とは。旧石器時代・縄文時代・弥生時代・鎌倉時代の各時代からなる複合遺跡である。なかでも、弥生時代後期前半(紀元1世紀、約2000年前)の竪穴住居跡から、水銀朱(HgS)の精製に関連する遺物が出土しました。このため二ツ石戎ノ前遺跡は、当時きわめて貴重であった水銀朱の生産・消費活動に密接に関わる集落であったことが明らかとなりました。
古来より赤色を基調とする顔料のひとつに、辰砂(しんしゃ)を原料とする水銀朱が用いられ、その起源は我が国では縄文時代後期に遡ります。弥生時代には土器や銅鐸への塗彩や墳墓への塗布などの例が知られますが、日本では含有される辰砂は純度が低く、そのため生産性も低いため、きわめて珍重されていました。また、石杵(いしぎね)は辰砂の顆粒を磨りつぶし、精製して水銀朱を生産する専用具であり、石器の大半に水銀朱が付着していることが確認されています。よって、石杵が出土する遺跡では水銀朱の生産と消費に関わっていたものと考えらる。さらに、徳島県の水銀朱生産遺跡の周辺には、水銀朱を塗布した銅鐸が埋納されている例が散見され、両者の有機的な関連性が説かれている。

●水銀朱を精製する石器(石杵)が3点出土
石杵は、L字状の石杵が1点(デジタルマイクロスコープにより水銀朱を確認、淡路初、県4例目〔伯母野山遺跡:神戸市灘区、玉津田中遺跡:神戸市西区、溝之口遺跡:加古川市〕、全国では約30例)出土しています。この他、水滴形の石杵が2点(1点には赤色顔料あり、水銀朱であるか否かは未確認)、淡路初、県初、全国では8例目です。石杵が複数出土する遺跡は多くはなく、3例以上出土した遺跡は県初、全国では他に3遺跡〔名東(みょうとう)遺跡5例:徳島市、古曽部・芝谷遺跡4例:高槻市、足守川加茂遺跡4例:岡山市〕が知られるのみです。遺跡で活発に水銀朱を生産していた状況が想像されます。
●水銀朱が付着した遺物が出土
土器底部内面に付着したもの1点、自然石に付着したもの1点、デジタルマイクロスコープより水銀朱を確認しました。水銀朱を掻き出す際に使用したものでしょうか。製品としての朱が確実に存在した証拠です。
●水銀朱の流通過程の一端が判明
 水銀朱の原料である辰砂は、中央構造線に沿った断層に多く認められます。そして、徳島県では、弥生時代に辰砂を採掘・精製したことが明らかとなっています。さらに、吉野川流域では石杵を使用した水銀朱の精製を行っていた遺跡が点在しています。今回の洲本市での水銀朱関連資料の発見は、阿波と畿内・吉備の「朱の道」のミッシングリンクを完成させ、その流通経路を知るうえで興味深い例となると同時に、2000年前の人やモノ、そして思想の移動の道筋において、淡路島が中継点になっていたことを示す貴重な成果と言えます。以上、兵庫県教育委員会よび洲本市教育委員会の調査発表である。

このように見てくると、九州(大分)、四国、淡路、吉野、和歌山を貫く中央構造線上に水銀の鉱脈があることがわかる。そしてこれらの地に「丹生」といわれる地名や山、川、神社が数多く見られる。それらは、九州鉱床群の大分、九州西部鉱床群の佐賀を発った丹生一族が移動した痕跡であり、のち四国に渡り、阿波鉱床群での鉱脈を発見し、採掘を行いつつ移動していった。また、一部は広島に移動し、石見、出雲、城崎、丹後沿岸を北上しつつ福井に至っている。つまり、糸魚川、静岡構造線と中央構造線上にほぼ乗っかっているのである。弘法大師(空海)が開いた高野山の境内にも丹生都比売命を祭る丹生神社があり、また、空海が巡礼した生誕地四国の山々は硫化水銀の鉱脈が広がる場所を結んでいることがわかる。当時の山岳仏教、とりわけ真言密教は、猟師(鉱山師)を従がえ金、銀、銅、水銀と鉱物資源を捜し求めて仏教を広めていったと思われる。そして、空海が絶大な力を持った要因の一つに、これら強大な鉱山師の支えがあったのである。
紀ノ国に上陸した丹生部族は更に紀ノ川上流を目差し、鉱脈の多い紀ノ川上流に拠点を設け、中紀、南紀、奈良県の吉野、宇陀方面に勢力を伸ばした。そして、年月を重ねるなか丹生都比売命と一族の後裔は鉱脈が尽きつつあるなかで、ある者は耕地開拓に従事し治水にも務め、ある一部は播磨、攝津に移動した。その一部の丹生(にう、にぶ)一族が私の地元である神戸市北区山田町にある丹生山(たんじょうさん)に水銀鉱脈を求めて移動してきたのである。今、山頂にある丹生神社がそれであり、三木城主別所長治を強烈に後方支援した明要寺の僧兵、領民、子供、女たちが豊臣長秀に悉く殺され全山、明要寺すべて焼き尽された山でもあるのです。

「金」を製錬するには、まず水銀を手に得なければならない。水銀と他の金属の合金をアマルガムというのですが、水銀には金、銀など他の金属と溶けやすい性質がある。この水銀の特性を利用したのが、金と水銀の「金アマルガム(合金)」なのです。金を採取する最も簡単な方法で、古くから技術者が用いた手法なのだ。金を含んだ鉱石を砕き、水銀と混ぜ合わすと、金と水銀の化合物が出来る。これを熱すると水銀だけが蒸発して金だけが残るというわけです。銅などにメッキ(鍍金)する場合、金アマルガムを塗り、火で炙って水銀だけを蒸発させる方法が採られている。奈良東大寺の大仏もこの方法で金メッキが施されている。大量の金は奥羽の伊達氏が調達し、水銀のもとである辰砂は丹生氏が調達した。丹生氏には水銀製錬、鍍金の技術は持っていなかったので、渡来人(秦氏)がその役割を担ったようである。
文献:和歌山県の歴史散歩(山川出版社) 日本の神々6(谷川健一編 丸山顕徳氏)白水社
紀伊続風土記空海と高野山 弘法大師入唐1200年記念 

竹中半兵衛死す
丹生山明要寺を焼き尽した秀吉軍は、山一つ越えた淡河城を手に入れ、愈々三木城を総攻撃すべく陣営を強固にし、包囲網を狭めた。防戦一方の別所方は、敵の厳重な包囲網をかい潜って毛利氏に後方支援を懇請する密使を送った。再三の要請に、毛利氏は水軍を擁して再び明石魚住の浜に投錨し兵糧を陸揚げした。このとき紀州鉄砲隊の孫市で名をあげた雑賀の門徒、石山寺の門徒も多数魚住に馳せ参じ、急遽砦を築き兵糧の輸送を企てたが、毛利の動静を具に把握していた秀吉は街道筋から、網の目のように張巡らされた間道に至るまで通行人一人残らず誰何(すいか)し、別所方の兵糧輸送を悉く阻止した。吉川元春や小早川隆景らも明石魚住に到着したが、秀吉の厳重な警戒網に阻まれ、徒に日を費やした。一方織田信忠は別所氏から秀吉に寝返った石野氏満城主(別所町石野)らを使い三木城周辺の地形、兵糧搬入ルート、組織図、規模などを改めて検証分析した結果やはり急激な進攻は危険と判断し、あとの軍略作戦は秀吉に任せ兵卒を引き、帰陣してしまった。困惑した秀吉は早速軍議を開き半兵衛らと協議した結果、やはり兵糧攻め以外方策のないことを再確認した。さきに平井山での合戦において苦戦を強いられた経験を生かし、周辺に小規模の砦を設け塁と塁との間に二重の柵を廻らし、また陣と陣との通路を造った。そして、三木城内と外部との往来を完全に遮断し、兵站を断った。世にいう最も残酷な作戦「干殺し」である。
三木籠城の途中で秀吉に身をゆだねた石野氏満は長い三木合戦終結後、弟と前田利家に仕え、小田原の北条攻めに参加し、八王子攻めには敵の首級二つをあげている。後、妻の実家の有馬氏の紹介で息子は幕府直参の旗本にとり立てられ、関ヶ原の戦いにおいては西軍について滅んだ元播磨守護赤松家の名跡をついでいる。しかし、石野氏は恐らく中世に台頭した士豪だったと思われるが、それ以前の祖先のことは依然として定かでない。(松村義臣氏)
平井山本陣には秀吉自ら起居し、本陣と志染中村との中間に参謀長である竹中半兵衛を配した。その陣容をざっと見てみよう。

安福田山上 丹羽権兵衛   二位谷の奥  浅野長政    平田村    吉田庄左衛門
和田四合谷 近藤兵部     箕谷の上   糟屋膳正    加佐村    加藤嘉明
吉田村    竹中半兵衛    法界寺山上  宮部善坊    跡部山下  織田七兵衛
宿原村    馬場治左衛門  鳥町河原   別所重棟    久留実村  堀尾吉晴
大塚君ヶ峰 木下与一郎    大村山上   谷大膳衛好  与呂木村  羽柴長秀
慈眼寺    有馬則頼      皇垣内     加藤光泰   平田山上  古田馬之助

★上記のなかに、久留美村慈眼寺裏山一本松に陣していた赤松円心則村の流れを汲む有馬法印則頼の名が見える。この有馬氏は別所氏と同族である。円心の孫である赤松義祐が、有馬(三田)の庄に城を構え有馬氏を称したのが始まりであり、のち、宮本武蔵の養子伊織が加古川泊神社に寄進した棟札にも有馬氏の名がみえる。戦乱の世とはいえ、既述した嘉吉の乱にも見られる如く、一族が敵、味方、惣家、庶流に別れ、戦わなければならない悲哀は、この三木合戦を検証する中で重くのしかかってくる。また、鳥町の河原に陣している別所棟重は長治の叔父であり三木城の家老でもあった。しかし、いま秀吉方の武将として長治と対峙している。この棟重の心中を察するとき、枳棘の宿命とでもいうべき、えもいわれぬ儚さ、虚しさを感じる。
上記陣容の他にも十二、三の付城があり、秀吉は、全部合わせると三十近くの付城を築いている。
信長麾下である秀吉。そして、秀吉麾下の勇将であるつわもの揃いが各要衝を固めれば、如何な別所軍といえども最早打つ手はなく、別所氏は毛利の援軍を待つのみとなった。
志染吉田村の付城に陣していた竹中半兵衛はその包囲網を狭め、中村、宿原と軍を進めやがて三木城下であり、本丸と眼と鼻の先である大塚にまで進撃した。しかし、この時既に肺を冒されており、はやる心を抑え秀吉の進言を聞き入れ一旦は京都に療養を兼ね上洛するも、「兵法家軍師の本懐は前線にあり」を貫き再び平井の本営に帰陣している。最前線に復帰した半兵衛は、まもなく吐血し、秀吉麾下の武将が見守るなか花に喩えるなら今を盛りの齢三十六年の生涯であった。時に天正七年六月十三日、夜半の雨が陣中風呂池の花菖蒲を濡らした。亡骸は平井山陣中に懇ろに葬られている。そして、稀代の戦略兵法家半兵衛の墓は、ここ平井山と東隣りに位置する安福田栄運寺、(私の母方(横山姓)の菩提寺でもある)この二ヵ所にあり、栄運寺には浄源院殿霊譽道覚居士(半兵衛)の位牌もある。

刎頚の交わり
信長の信頼も厚かった伊丹の荒木村重が寝返り且別所方に味方し、有岡城に立て篭もった。黒田官兵衛孝高は荒木村重の真意を確かめるべく伊丹に赴いたものの村重に投獄、幽閉されてしまう。
竹中半兵衛の死はそんな緊迫した情勢のさなかであった。この二人の戦略家を失った秀吉は、まさに両腕をもぎ取られたも同然であり、その受けた打撃は計り知れないものがあった。
竹中半兵衛重治。その出自を辿ってみると、天文十三年(1544)竹中遠江守重元の嫡男として美濃国不破郡池田郷に生を受け、菩提山城に育っている。清和源氏土岐氏の流れを汲み、美濃の名家長江氏から興った岩手氏の分流である。その岩手信忠の弟、重氏が竹中氏を名乗ったと言われている。そして、半兵衛はこの重氏の孫にあたる。重氏は斎藤道三に仕えたがのち、半兵衛の時に、時の主家斎藤龍興の人望のなさに落胆しその言動を警めるため、その居城稲葉山城を攻略した。当時美濃への進出を企てていた信長は、美濃の領土半分と引換えに稲葉山城を明渡すよう迫ったが、半兵衛重治はこれを「己の私利私欲の行動ではない」と、即座に拒否。それどころか、翌年には斎藤龍興に、奪った城を返している。そして、自分は菩提山城に引きこもり、のち飄々として国外(近江国)の小谷城主浅井久政に身を預けたとされる。無欲で、奔放不羈(ふき)を誇った半兵衛の人となりが垣間見れる。永碌十年(1567)信長が美濃に軍を進めたのを機に半兵衛は信長に属し、のち元亀元年(1570)越前、朝倉氏攻略のため従軍したりして数々の功名を挙げ、信長より褒賞を賜っている。しかし、病弱(労咳)なため、実弟の竹中久作に家督を譲り、表舞台から身を引いていたが、信長の命と秀吉の再三に亘る要請に秀吉の参謀として各地を転戦し、秀吉の寄騎となて、智将の名をほしいままにした。秀吉はこの後、黒田官兵衛をも家来として迎えるのだが、半兵衛と官兵衛の邂逅はどのようなものであったのであろうか。
上月城陥落●で既述のとうり、天正五年十月二十三日、信長の命を受けた秀吉の本格的な播磨国出兵が始まった。そして、初めて播磨に入った時、別所長治は黒田官兵衛(如水)らとともに秀吉方の味方として秀吉との戦いを避けるよう諸将を説得するため奔走している。この時期に秀吉の軍門として従軍した竹中半兵衛は、黒田官兵衛と知り合ったようだ。同年十一月竹中軍は上月城の支城である福原城を攻略するのだが、官兵衛も後方を支援している。以後、半兵衛と官兵衛の二人は秀吉の両輪として戦乱の世を疾駆するのだが、両兵衛の出会いから半兵衛が平井山で歿するまでの期間は僅か三年弱である。しかし、その短い交わりの中で官兵衛は、半兵衛から多くを学び取っている。官兵衛が伊丹の荒木村重に幽閉された時、半兵衛は、官兵衛が寝返ったと錯覚した信長を宥め、「官兵衛は信頼するに値する」と説得した。それでもおさまらない信長は、人質として預かっていた官兵衛の嫡男松寿丸(後の黒田長政)を殺すようにと秀吉を通じて半兵衛に命じたが、半兵衛はこれを取り成し、長浜城から岩手の弟久作のもとへ移し匿っている。そして、信長の前に出て「処分いたし候」といって平然と嘘を言った。何故か信長も首実検もせず、深く詮索しなかったという。また、秀吉が官兵衛に宛てた「義兄弟の誓紙」を奉公の邪魔になるといって官兵衛の目の前で破り捨てたことなどは、官兵衛の自制を促したものと言えよう。このように二人の両兵衛は実に仲が良く、病弱な半兵衛は元気いっぱいの官兵衛を頼み、官兵衛は智将である半兵衛を恩人と慕い、よき見本としたのである。所謂同僚であり、師弟のような関係であり、「刎頚の交わり」なのである。
さて、二人を評する時、諸葛亮孔明とか、劉邦の軍師「張良」と「陳平」に准えられる。それほど半兵衛と官兵衛の残した軍功は大きかったのである。では、二人の評価を見てみると、少し開きがある。半兵衛のそれは、当時秀吉方の武将仲間内でも「無欲恬淡」の人柄で一致。これに対し官兵衛は「仁心無く我欲の為、平地に乱を招くが如し」と酷評されている。韜晦(とうかい)、野心家である官兵衛を秀吉がを重用することへの危惧を指摘しているのである。ある意味やっかみもあったであろう。
天正七年(1579)官兵衛の主家、御着の小寺氏が滅び、翌年(1580)三木の別所が落ち、秀吉の播磨平定が成った。その秀吉に、官兵衛は姫路城を献上するのだが、秀吉は愕きながらもその提案を受け入れた。と同時に、官兵衛の見えざる野望と大胆行動に対する警戒心を抱いた。
新時代の政治、軍事、経済的拠点として播磨の中心部、姫路がこれからのコア(核)になると、もともと商家の出である官兵衛は、商人的臭覚で察知していた。そして、姫路から中国攻めを成功させ、信長、秀吉が天下を狙う。その政治戦略のなかで黒田家あるいは官兵衛自身の「野望」も実現させようとしたのではないだろうか。時代を見る目において、人後に落ちない官兵衛は自らの行動に確信を抱いていた。中国攻略の初戦である備中高松城の水攻め、本能寺の変のあとの電光石火の反撃に転ずるその素早さは、官兵衛が秀吉戦略の中枢にあり、その天下取りを側面から助けたというよりも寧ろ積極的に関与している。その功績で、後に官兵衛は豊前(大分)十二万石に封じられる。働きの割りには石高が少ないのは、秀吉が如水の才覚を警戒したとされる。しかし、秀吉の心中を早くから察知していた官兵衛は、さっさと隠居し、号を如水とした。秀吉歿後、官兵衛は家康に取入る。関ヶ原では、半兵衛に助けられた嫡子、長政(幼名松寿丸)を遣わし、抜群の軍功をおさめさせた。その功あって長政は筑前(福岡)五十二万石を与えられ、天下は手にできなかったものの、黒田家が播磨で狙った「野望」は達成されたといえよう。
こんなエピソードがある。
「吾(秀吉)が死ねば、次に誰が天下を取るか言うてみい」。小姓たちは、口々に家康、利家、輝元などと当時大名の名をあげたが秀吉の口からは、「お前らは何も知らぬ。それは官兵衛じゃ」と、意外な反論が返ってきた。「あやつは、毛利との和睦をはじめ、明智光秀との決戦、柴田勝家、徳川、島津らとの戦で相談すると即座に作戦を立てた。それも見事なものじゃ。吾らの及ばぬ知恵者じゃ、乱を起こし、他人に骨を折らし、その者が敵を手中に収めようとしたとき、横から手を伸ばし、戦果を苦も無く手に入れてしまう、これがかの男の真骨頂じゃ。世に恐ろしいのは徳川と黒田じゃ」。秀吉に怖がられた家康でさえ、官兵衛をして「西国第一の弓取り」と評し、小早川隆景も「世に、如水軒ほど知恵のある人はいない」と、言ったという。
官兵衛にとって二番手、三番手に甘んじることこそが己を生かす最善の道と心得たようである。
自分の器、度量を知悉し尽くした官兵衛ならではの戦略策謀といえよう。

平田、大村坂の合戦 谷大膳散る
開戦からはや一年六ヵ月。両陣営過酷な死闘を繰り広げつつも、未だ確たる先が見えてこない。そんな中天正七年九月四日、秀吉は安土城に詣で信長に謁した。三木城攻略の戦果が捗々しくないことに苛立ち嚇怒した信長は、指揮官交代を示唆した。憔悴した秀吉は己を奮い起し、睚眦を決っし、平井山本営に帰陣したその矢先(九月十日)闇を突いて毛利の大軍が御着、曽根、衣笠の士卒とともに三木城に武器弾薬、食糧を搬入すべく秀吉方の武将、谷大膳亮衛好が守備する平田の砦を襲撃したのである。

敵の虚をついた毛利軍は、平田の砦を目差し一気に攻撃を仕掛けた。真夜中の然も不意の敵襲に大混乱を来した兵卒らは右往左往するも、守将の谷大膳は身の丈六尺に喃々とする大力無双の豪傑であり、怯むことなく部下を督励し自らも大長刀をふるって毛利、別所兵を薙倒し、奮戦するも衆寡敵せず身に五十余創をうける。もとより、夜襲でもあり多勢に攻めこまれた自軍の兵は大凡討死にし残る兵卒は深手を負い満身創痍、既に闘う気力さえ萎え、陣内は修羅場と化した。その中で一人気を吐く谷大膳は孤軍奮闘の末、刀折れ力尽き壮烈な最期を遂げた。 共に戦死した兄福田正舜(玄々院)、弟土田小傳次、甥福田彦八良(勇功院)、同孫三郎(猷駿院)四名。秀吉はこれら兄弟の死を悼み丁重に葬り杉を以って塚木としている。後すべからく五名の菩提は大村金剛寺が弔っている。又、大膳の嫡男衛友は、この戦の仇敵室小兵衛の首級をあげ父の恨みを晴らしている。秀吉は、大膳父子の功を嘉賞し丹波山家に六千石を俸禄している。又徳川の治下に入るや加封され一万六千石の大名となり明治に至るまで歴世城主であった。明治以降華族令により子爵に列せられている。

谷 大膳。幼名小太郎享禄(1529)宇多源氏、佐々木氏、の末裔、福田六兵衛尉正之の次男として美濃国莚田郡地良村に生れている。幼くして近江国甲賀郡長野豪族、伯父谷衛之に養われ谷性を冐(もう)す。大膳は長野の地を継承するも、後伊地良村に住し、斎藤道三、織田信長に仕えている。 現存している墓碑墓域は、大膳二百回忌を期して九代の孫、衛秀の部下福田正親に命じて造営している。 そして、大膳没後390年の昭和42年9月、谷大膳末資木下茂氏が建之したモニュメントに、こう刻まれている。
「以ってその忠節を偲び遺徳を後毘に顕彰せんとの真情に出づ。公死して茲に百九十年公一族の事跡を更に簡明にすべく改めて金石に刻し墓域を飾る。英魂子孫の弥栄をみそなはしめ給え」と。
谷大膳の墓碑墓域は三木平田、大村の境にあって、僕のいとこであり特に懇意にしている岩崎尊志氏の経営する工場西横を100メートルほど駆け登った通称大門山の中腹にある。地理的には、三木市街を南北に貫く母なる川「美嚢川」を東西に架かる久留美大橋の西1kmに位置する。大膳歿後420余年、墓碑を造営して以後220年。幾星霜の風雪に身じろぎもせず、静寂の中で凛とした佇まいは、一瞬息を呑む。そして苔むし、少し崩れかかった大膳ほか四名のその威容を誇る墓碑を目の当たりにした時、歴史の重さに一瞬たじろいだ。まさに古色蒼然の趣である。
余談ではあるが、ぼくの先祖の墓、つまり長谷川家先祖代々の墓碑墓域も谷大膳の墓碑と極めて近く、大村金剛寺東詰め北から大蛯池、中池そして新池と並ぶその新池畔東にある。何れにしろこの辺りは、兵(つわもの)どもが主君の為に命を賭して闘った合戦場だったのである。また、谷大膳一族を供養している金剛寺(三木大村)は西暦651年法道仙人が開基している。天長4年(825)空海が諸国修業の折に立寄り、カヤの木で薬師如来を刻み一堂を建立したと、史書にある。後、天正の乱で堂塔を焼失するも、大村由己の尽力で寛文5年(1665)に現本堂が建立され現在に至っている。

長治、枳棘の決断
秀吉方による糧道遮断において最大の激戦は平田、大村坂の戦いであった。谷大膳の憤死を知らされた秀吉は、平井山の本陣から新手の兵を美嚢川を渡り久留美、跡部山の峰伝いに平田砦、大村坂に兵を進めた。一方、秀吉の援軍がくることを予期していた別所勢は三木城中より別所吉親が三千五百騎を率い参戦。秀吉軍は三木勢と大村坂に陣する毛利軍との間を突きっきり加佐坂の真上から怒涛の如く攻め下りたため両軍主力が入乱れ大激戦となった。戦列は乱れ死闘は激烈を極めたが、秀吉方の戦力がまさり勝利した。この戦いで秀吉方にも多くの戦死者を出したものの、別所方はそれ以上の有望な家臣が討死にした。その中に、後藤又左衛門、別所甚太夫、光枝小太郎、櫛橋弥五三、高橋平左衛門、小野権左衛門ら大将十数名、郎党六十余名の名が見える。
では、秀吉軍が加佐坂の真上から別所軍めがけて攻め下りた、その加佐坂とはどのような地形であったのだろうか。現在の県立三木高校の北側、山陽自動車道三木パーキングエリア南あたりからは平田、大村はおろか三木市全体が見晴らせる。それどころか天気の良い日には淡路島や明石海峡大橋も見ることができる。東側には海抜500メートル級の丹生、帝釈山系が迫り、南側には丘陵地の中に雌岡山、雄岡山、西側には和田と接する正法寺山の峰が眺望できる。加佐坂とは鼎(まさ)にこのような地理的枢要な地なのである。
緑が丘、自由が丘の町並みは「三木礫層」や「高位段丘層」で出来た丘陵地であり、北側の山々は神戸層群によってできた丘陵地である。美嚢川や志染川に平行して、丘陵地のへりには美嚢川の侵食によって中位段丘層が分布しており、その下の平地は沖積平野になっている。何億年もかかって現在の三木市が形成されてきた。地形、川の成り立ちは、我々にその間のさまざまな地質的な変動を伝えてくれる「地球の歴史」のメッセージといえる。実際、ここ加佐の地に立ってみると、大地が語りかけてくるようなそんな高揚感を覚える。また、三木を貫く美嚢川の下刻作用(侵食作用の一種で川の侵食で川底が深く削られること)を調べることによって、土地の隆起を知ることができる。三木市を流れる大昔の美嚢川は、一様に侵食、堆積を繰り返しており、強い浸食作用で出来る浸食崖(深い下刻)を形成するようなことはなかった。ところが六甲山ができる時の地殻変動(六甲変動)によって三木市の東側(安福田、志染、御坂方面)の土地が大きく隆起し、美嚢川の傾きが大きくなったのである。畢竟、このことで美嚢川の水の流れが急になり、川底が激しく浸食されるようになった。そのことによって現在の志染地区の美嚢川(志染川)では地面と川底の高低差が5〜6メートルもある。然し、別所地区(石野、和田)にある美嚢川下流(加古川本流との合流地点)では1〜2メートルぐらいしか落差がない。このように下刻作用の大きさは、土地の隆起量と因果関係があるため、過去の地殻変動を知る手がかりとなるのである。川の持つ奥深さであろうか。

話をもどす。この戦いで別所軍は大将格、士卒、兵員、雑兵あわせ数千の犠牲者が出た。この大村の合戦に力負けした別所軍は毛利軍からの武器、食糧の殆どを手にすることが出来ず、大半は秀吉に戦利品として没収され、よって愈々三木城内は窮乏の極みを迎えるのである。平田、大村坂の合戦で勝ちを得た秀吉はその勢いに乗じて鷹の尾城、新城、宮の上砦を陥れ、なお軍勢を進め、本丸を包囲した。この期に及んで、もはや徹底抗戦は不可能である。別所小三郎長治にその時がやってきた、枳棘の決断である。忠誠を尽くしてくれた家臣、城兵、領民にこれ以上の犠牲は強いられない。天主閣から見下ろす美嚢川の瀬音は二年前と少しも変っていない。涛々と緩やかに、そして淙々と…。長治は意を決し、一族の自刃と家臣、雑兵、民百姓の助命をひきかえに無条件降伏を宣言した。ここに、長い苦しい戦いは終った。時に天正八年正月十五日、一族自刃の日は冱寒の小雪舞う一月十七日であった。

━あとがき━
秀吉や竹中半兵衛は城を包囲した兵糧攻めという戦略を採っているが、信長の戦略でもある「焼討ち」なども多用してる。寺院が別所方に味方したり、伏兵を匿ったりするのを極度に恐れていたに他ならない。
伽耶院(上写真)も秀吉によって数多く焼かれた寺の一つです。伽耶院の歴史は七世紀にまで遡り、大化元年(645年)法道仙人を開基とし、孝徳天皇の勅願により建立されている。後、天和元年(1681年)後西上皇の勅により、「伽耶院」と改称。平安中期には堂宇数十、坊塔百三十余。花山上皇の行幸を得るなど隆盛を極めた由緒正しき寺である。また、天台系山伏を統率す五院象の一つでもあり修験界にその猛威を揮った。また、伽耶院より北へ約十キロ、口吉川町東中の深山分け入る山中にその壮大な宝塔や豪壮な本堂、伽藍が姿を現す。名刹蓮花寺だ。私が訪れたのは新緑の萌える五月。石段を楓が蔽うように、緑の隧道(ずいどう)を上り詰めたその正面に本堂がどっしりと静かな佇まいを見せていた。本堂右には多宝塔が、左には貞和二年(1346)とされる槌鐘が緑錆を帯び、いかにも年代を感じさせる。天正七年(1579)秀吉の焼討ちにより、堂塔はもとより全山灰燼に帰し甚大な被害を蒙った。しかし、東大寺との深い関係をうかがえる銘が刻してある「槌鐘」は、幸いにも戦火を免れ、今では重要文化財に指定されている。奥の院には心願成就の霊所として身丈十八尺もあろうか、十一面観世音菩薩大坐像が本尊として安置してあり、脇立には薬師如来と地蔵菩薩が居並ぶ。また、庫裏大玄関の間に設えてある十二面もの襖絵は嘉永四年(1852)菅野繁谷の作とされる。
蓮花寺。いかにも名刹と謳われるに相応しい風格を具えたこの寺は、天暦八年(954)に村上天皇の勅命により、醍醐山の菩提上人によって中興され、蓮花寺と称するようになった。開祖は大化元年(645年、中大兄皇子(天智天皇)の時代にまで遡る)に法道仙人によって開創された。また、如意山蓮花寺は、真言宗大覚寺派に属し、弘法大師が修業された地であると伝わる。
尚、秀吉によって焼き尽された堂塔は、その後徳川の治下に入り、将軍より代々御朱印を下附されて、全山、寺域を安堵する。その後の兵火や山火事にもかかわらず伽藍は次々と改築され二十万坪余りの境内には傾斜を利用して見事に七堂伽藍が配置されている。
もみじの名所でもある名古刹、蓮花寺の若いご住職と暫し歴史の話など歓談する機会に恵まれたことは嬉しいかぎりであった。帰る間際、住職が「秋にもう一度お越し下さい」とのお誘いに礼を述べ、必ず秋に訪れると約束し帰路についた。

三木城を攻略した秀吉は焼け野原になった町の復興を図るため、年貢、労役などを免除するという「制札」を立て、各地に逃避していた町民の呼び戻しを図っている。播磨各地で非業の限りを尽くし、領民に嫌われた秀吉の「人気取り」ともとれる城下町の復旧と産業振興策である。今でいうところのアメリカのアフガン進攻、イラク攻撃によるところの、スクラップアンドビルドゥ(破壊と建設)か。しかし、一概に人気取りと決めつけられないところがこの男の魅力なのかもしれない。秀吉は中国進攻のため三木城に入るのだが、僅か四ヶ月で三木城代として杉原家次を当て、自分は黒田官兵衛孝高よりもらい受けた姫路城にちゃっかり入るのである。
この頃の姫路城は、官兵衛の祖父、重隆と父、職隆が永碌四年(1561)に御着小寺氏の出城として築いた砦風のものであった。既に築後十九年が経っていた。
秀吉は、直ちに改築と言うより新築に取り掛かる。墨俣の一夜城からの功臣、前野長康を普請奉行に、志摩の国から招いた番匠磯部正次郎直光が大工棟梁にそれぞれ任じられ、浅野長政、黒田官兵衛らの加勢を受けて派手好みの秀吉に相応しい天主を持った城郭建設に乗出したのである。
赤松、小寺、黒田と時を経る毎に城郭の位置は姫山の西から東、南東と僅かづつ移動している。そして今回秀吉が決めた天主の位置がそのまま、後の池田輝政にそっくり受継がれるのである。ゆえに、秀吉の天主と今現在の天主は略同じ位置と考えられる。着工から一年、秀吉の姫路城は
天正九年(1581)三月に完成している。大手門は現在の南向きとは違って東方向だと云われている。おっつけ城下町は東に向かって翼を広げようとしていた。秀吉が三木城を諦めたのはほかでもない三木は城下町、つまり都邑の形態がすでに出来あがっていたことにある。秀吉の手腕が発揮できないというわけだ。一方姫路は、これからの町であり秀吉の思いどうりの青写真が描ける、そんな展望を姫路は持っていたのである。後に太閤丸と呼ばれる姫路城だが、当時秀吉が天下を取るなどと誰も予想し得なかったであろうし、また、秀吉自身も本気で天下を狙っていたかどうかも定かでない。少なくとも光秀の信長に対する誅殺前までは。本格的な城郭、姫路城の威容は、遥か播磨灘からでも羨望と愕きをもって眺められた。それまでの姫路平野には寒村も入れて千戸弱の民家が点在していたようだが、秀吉城の完成を機に一挙に人が集まり、都邑が形成されていった。秀吉の播磨入りに抵抗した英賀の町衆を赦免して姫路城下へ移住させ、さまざまな仕事につかせた。また、龍野からの移住者による龍野町の形成、さらには生野町、竹田町といった但馬からの人々にも新たな町を造らせた。産業面においては、鋳物師集団の筆頭芥田五郎衛門の重用など、商工業の振興策に力を注いだ。町中には市が立ち、樂市として諸公事役を免除し、商業の優遇策を提唱したり、自由な商品流通が可能になり、特に海が近いこともあって海運産業、情報産業も発達した。経済の中心地大阪に播磨の特産物を輸送できる強みを発揮した。町には商人が溢れ、瞬く間に城の東側を中心に城下町が形成されていった。信長の天下制圧を支える大きな一翼となった秀吉の城下町として、恰好の繁栄と活気が姫路に齎されたのである。
三木城下においての秀吉の施策は「人気取り」との悪口を浴びたが、姫路における秀吉の経済振興策を見る限りにおいて、天下人への第一歩としてのその才覚の片鱗が覗い知れよう。

「制札」に話をもどす。免税というこの恩典は、徳川幕府にも引継がれたが、四代将軍徳川家綱の時、延宝五年(1677)赦免を取消されている。そこで、三木町内の庄屋、町年寄たちが本要寺に集まり知恵を出し合った結果、当時の三木が幕府直轄の天領地であった為、江戸幕府に直訴するしかないとの結論に至った。しかし、時の直訴は天下のご法度。死罪覚悟だけに人選に窮するも、勇気を以って名乗り出た人物が大西与左衛門(平山町年寄)と岡村源平衛(平山町大庄屋)の二人だあった。江戸に下った二人は、交渉の決め手も無い侭、困窮する。一方三木では、本要寺の納屋にあった秀吉の「制札」を発見し、飛脚を飛ばして江戸表に届けた。年の瀬の雪降る中、老中酒井雅楽頭の門前に座り込む二人の姿に、幕府も赦免を認めた。又、ご法度である直訴についても「お咎めなし」の温情ある判断を下した。以後、記録文書等の大切さを認識した三木町民は本要寺境内に蔵を建て書類の保存に努めた。後、宝永4年(1694)二人を称えた義民碑が建立されている。毎年、これらの記録文書や古文書、制札などが「虫干し」という恒例行事が行われる。本要寺住職の奥さんからお誘いを受けたので、今年は一度お伺いして史料、古文書などを拝見しよう。
三木と言えば、忘れてならない人物がもう一人いる。その名は、大村由己(ゆうこ)。
数々の大茶会を催した秀吉だが、家臣らを集め最初に催した茶会が、三木の平井山の陣中であった。当時、織田の武将が茶会を開くには、信長の許しを請う必要があり、その最初の許しを得たのが、別所方に寝返った荒木村重。二番目が本能寺で信長を不意討にした明智光秀。三番目が秀吉であった。摂政関白になってからも黄金の茶室を造るなど、千利休の「詫茶」とはほど遠く、両者の人間としての基本的な考え方の 相違は、後利休「切腹」という形で見ることが出来る。
何事にも興味を抱き、自己顕示欲の塊でもある秀吉は、大阪城の能舞台に出演している。演目は「柴田退治記」。主役の秀吉を秀吉自身が演じており、この台本を書下ろしたのがほかでもない藻中斎梅庵こと大村由己だったのでる。 由己は、三木大村にある金剛寺の塔頭(護寺)、青柳山長楽寺の僧・頼音坊が前身。自らの才能をもてあましていたのか、秀吉の三木城攻で大村一帯が秀吉側の陣地になっていたので、ちゃっかり取入り秀吉の祐筆(秘書)となったのある。まさに曲学阿世と云うべきか。
同郷の藤原惺窩同様、京都相国寺で学んだことのある大村由己だが、性格的には惺窩とは好対照で、秀吉に仕えてからは文学の全てに才能を開花させ、記録文学から謡曲、和歌、連歌、狂歌など多彩に手を染めている。 秀吉天下平定後の天正13年には貝塚で、蟄居中の本願寺顕如上人、教如新門主の前で、自作の「播磨別所記」など軍記を朗誦しています。また天正15年には、関白太政大臣になった秀吉は「関白任官記」を執筆するよう大村由己に命じています。 三木合戦で焼失した金剛寺の復興を秀吉に願ったり、朝鮮の役に参加したりした足跡が見受けられ、晩年は大阪天満宮会所の社僧として余生を送り、秀吉の亡くなる二年前の慶長元年、その生涯を終えている。秀吉の祐筆までも務めた大村由己を歴史的に調べて見るとき、その記述が著しく少ない事である。例えば信長、秀吉の茶頭でもあった利休、惺窩に関する文献、史料は枚挙に暇がないほどあるのだが、その落差の激しさは一体なんなのだろうか。「ある人物の学術を後世に顕彰し発展させるには、その門人に人を得るか否かが決定的な要因になる」とはよく云われる。大村由己には門人がいなかったというべきか。また、由己も利休と同じく秀吉の懐深く入りすぎた結果、疎まれ蟄居屏息に至ったのであろう。
大村由己。彼の出自を探ってみてもその史料は殆どない。しからば、名前の由来から辿るしか方法はない。古来より名前は即ち地名に由来する場合が多い。

三木市大村。私の父や祖先の地であり、本貫地である。この地を探るのに、暫し松村義臣氏の「三木の地名探求」を繙(ひもと)いてみよう。「大村」という地名について、松村氏は嘗て「三木誌談」に「御門」について群衙(ぐんが)所在地ではなかったかという仮説を報告している。
郡衙には役所そのものの一画の場合と、それを含めた一定の範囲を表す、広狭二様の解釈ができる。仮に広義の場を「郡家」として理解すると、「郡家」の中に「郡衙」があることになる。郡の政治的中核である。こう考えて、さきの仮説を「大村」地名に描いてみた。仮説の郡衙を大村の一画に想定したが、大村の西には鳥町、東には平田、加佐と続く。特に加佐地区には条里制の遺構としての小字が僅かながら残っている。この鳥町の東部、平田、加佐地区を含めて「郡家」の地とすると、「郡衙」は略その中央部に位置するのである。その中に郡長の「位田」、つまり功田ともいうべき地も含まれていた可能性が生ずる。その頃は、鳥町、平田、加佐、大村などの行政地区名が生まれていなかったと思われるから、「郡家」の範囲は巨大である。中心に「御門」があったと推定できる。この「御門」説については昨年、金剛寺住職さんとのお話の中でも出てきた説であるが、
朝廷から賜った土地、「位田」ともなれば御門説は説得力を持つだろう。
郡衙が衰亡消滅しても交通の要衝だから発展を続け、やがて分村するようになる。平田、鳥町に挟まれた範囲が、「御村」とよばれ、更に「大村」と転訛、つまり訛ったとも考えられる。大村は小村に対する名とも考えられるが、果たして「大村」が巨大であるかというと、大半が山地であり、他村に比して面積が広いともいえない。これが所謂「大村」は「御村」に由来するという仮説である。
「御村」から「大村」への仮説は、郡家(郡衙)という朝廷の定めた制度だから「御」の字を冠した 面積も巨大であることがその理由であろう。
では、「御門」がはたして地名なのであろうか。
他府県にも「御門」の地名がある。群馬県は渡来人が開拓したところであるが、概ね各郡に一ヶ所の「御門」地名をもつ。栃木の下都賀郡に「御門」という古墳があり、千葉下総に「御門村」。伊豆三嶋附近の「御門」は国府が置かれた跡と見られている。大分にも同じく「御門」があり役所跡と考えられよう。このように見てみると、三木の「御門、ミカド」は、他府県の範疇に入るかどうか微妙なところではあるが、鳥町から正法寺へかけての古墳群、白鳳時代の瓦塔を発掘した小和田神社があり、古代寺院の存在を見せてくれる。特に正法寺古墳群は、三木市内で大小三百基近くある古墳のなかでも代表的な横穴式石室をもつ古墳である。出土した副葬品から、六世紀中期から七世紀前半にかけて造営された古墳群であろうと類推される。この古墳群がある段丘に立ってみると、眼下には南北に横たわる加古川本流、そして東から西へと美濃川がまさに加古川本流へと合流する北側に位置していることがよく分る。また、隣りの和田、鳥町にも古墳群が点在し、対岸の下石野、から高木にかけても前方後円墳はじめ多くの古墳群が見られる。この美嚢川河口に古墳が集中しているのは、とりもなおさず好立地によって集落が多く形成されたことが窺える。世界の文明、とりわけナイル川流域のエジプト文明。米英による大義なきイラク進攻で未だ全土が戦乱状態にあるチグリス、ユーフラテス川に挟まれた肥沃な三角洲に発達したメソポタミヤ文明。インド、ガンジス川流域のインダス文明。黄河流域の中国文明。これら世界四大文明発祥の地は須く川の流域に発達している。古代の三木における文明、邑の成り立ちも例外ではない。母なる川といわれる所以だ。

これら古墳時代の背景と大村の「郡衙」説、「御門」地名説とは何処かで繋がっている。
尚、これらとは少し離れてはいるが月輪卿には大宮神社があるのだが、大宮神社の創建期は祢御門神社より新しい。よって禰御門神社を考えざるを得ない根拠となる。三木における郡衙の所在地は未だ確定はしていないが、嘗て存在したのは確かだ。一つに上の丸説、今一つに府内説、それに加えて志染中村説である。安福田から少し東よりに位置する中村の遺跡から「墨書土器」が発見され、郡衙の可能性が指摘されている。何れにしても西の大村は父方の在所であり、東の志染中村は母方の在所である。とまれ巷間、喧(かまびす)しく鼎沸される仮説論議のなかで「大村御門」説も俎上にあげなければならない。もし「ミカド」の地名が発見されれば、そこが郡衙(ぐんが)の跡かもしれない(三木市教育委員会)。それが大村にしろ、安福田の東方志染中村にしろ、そこはかとなくロマンが満々てくるではないか。
郡家(郡衙、郡庁、郡府)は周囲を溝、土塁(羅城)などで区別され、庁舎舘舎正倉ほかの建物群から成っていたという。日本各地に郡衙、官衙が置かれていたのだが、郡の広狭によって施設、建物の規模も自ずと変わる。しかし必要最小限度の建物群を収容できるという条件を充たさなければならない。郡衙に四つの門があったとして、南門(寺でいう朱雀門)が正門であり、北門は裏門となる。宮中では平素北門は開けない。宮中祭事に参加する身分の低い神人達の通路だったであろう。郡衙の場合もその区域内に小祠を営んでおり、その神事に与るのが神人達で、敷地外に居を置き、平素は農耕に従事していたと思われる。畢竟神社は郡衙敷地内と考えられるから、現在地(大村一〇八六番地字北山)ではなかったことになる。祭神は郡衙守護の神で、一般農民のものではなかったであろう。時が経ち「郡衙」の廃止と共に神社も廃(すた)れるから、村人たちが従来祭っていた産土神と合わせて、社名を継承しながら神社奉仕を主体に農業を営んでいた人々は郡衙の廃絶によって、神社を現在の地に移し自らの産土神(うぶすな)としたのであろう。
郡衙としての大村の立地条件を見てみると、北に丘陵を背負い、南には川を控えた陸路水路の要衝であることがわかる。明治初年から昭和の字限図には、
大門(金剛寺のある谷間の地)
北山(現在の禰御門神社のある山地) この二つの字名を北から南に向かって、
●知恩寺、谷後、砂、高柳、川ノ上(東側)
●寺ヶ市、坊ヶ市        (中央)
●堀端、宮ヶ子、城ノ前     (西側)
東側は、大門の谷筋に当り、三つの池(北から大姥(おば)池、中池、新池)が並ぶ川筋であり、
字「砂」の地名がそれを端的に表しているから立地条件としては甚だ悪い。余談だが、私の本籍(本貫地)は大村211番であるから、字「砂」の地域(神鉄粟生線大村駅(谷後)手前と旧国道の間に位置する)に当る。読んで字の如く父や祖先は、当時の「砂」という小字名が示すとうり、やせた砂ばかりの土地で苦労しながら耕作しつつ居住したのであろう。(現在は字「砂」の域内を東から小野方面に貫く旧国道沿いの南側にジャスコが出店している)。
私の高祖父にあたる長谷川萬造は当時(嘉永年間)美嚢川右岸、大村五番屋敷(川ノ上)に居を構えており、萬造の妻ちょう(蝶)は文政九年(1827)十二月十日生れとあるから、かなり古い時代からここを本貫地としたようだ。因みに萬造の生年月日は定かではないが、
金剛寺(福岡徹明24代住職)過去帖によると明治元年(1868)十一月十六日「万蔵」歿す、とある。斉主は金剛寺「智翼」住職(1580年秀吉の三木合戦が終熄してより21代目)であり、
墓所は大門墓地である。(金剛寺福岡住職談)
これら東側に位置する谷後、砂、川ノ上に比べて西側は溝をめぐらした肥沃な「宮ヶ子」の北に狭い「堀端」が接し、南に「城ノ前」の地が続く。そして、「城ノ前」の東つまり字「砂」の南側には「高柳」、その南には「川ノ上」が美嚢川右岸に小さく位置する。こう見てみると小字は全国に煌星の如くある。その小字の地名の由来を辿ればその地の歴史が仄かに浮かび上がってくる。「地名をおろそかにすることは、即ちその地の歴史を自らの手で抹消することを意味する」。とはまさに名言ではないか。
私は、「宮ヶ子」に注目する。「子」を「北」とするならば「城ノ前」との間に「宮」がなければならない。郡衙には溝や土塁がめぐらされていた。土塁は即ち「羅城」であり、郡衙や城の外郭を指す。因みに羅城門は羅生門と同義であり、平城京、平安京の正門を意味する。であるならば、「宮」「城」は同じであり「宮ヶ子」の「子」は「根」であり「本」の意と考えられる。畢竟「宮」のルーツということになる。亦中央部を占める「坊ヶ市」「寺ヶ市」に対して、その間に「宮ヶ市」であろう。「宮ヶ市」は溝をめぐらした地域だが、同時に「寺」「お堂」に対する「宮」でもあったのである。だとすると、凡その神社の所在が浮び上ってこないか。神社があり、溝や土塁(羅城)のあった地域、「宮ヶ子」は即ち「御門」そのものではないのか。夢は広がるが、あくまでも推測の域を出ない歯痒さが残る。まさに隔靴掻痒というべきか。嘗て大村に御門(みかど)という地名があった。然しその地名が消えたのは郡衙の廃絶によって神社が移動したことに関わるのではないだろうか。「宮ヶ子」「城」「御門」は同一地区の異なった名称であり、土塁や溝で囲まれた「城」の名がこの地で生れたのは、初代大村城主、大村主膳貞治の孫、大村九朗左衛門治吉のとき三木合戦に参戦し、この大村城を守備していたが、やがて大村坂の合戦で九朗左衛門治吉は討死にしたという伝承も相俟って「城」の名が生れたのであろう。いずれにしても、貴族、寺院の荘園化が律令制を崩して郡衙の意義そのものが有名無実化を齎し廃絶を加速させたと思われる。そして、村人は神社を今の地に勧請したのである。(以上松村義臣氏の「三木の地名探求」より)

大村坂の登り口に一風変った名の古いお宮がある。大村字北山一〇八六番に鎮座する村社が
禰御門(ねのみかど)神社である。大村坂の登り口を左へ折れると直ぐ目に飛び込んでくるのはお社の傍らに大きな梵鐘が場違いな風情で鎮座している。村人が浄財を拠出(長老の話)しあったとのことだが、神社の境内に釣り鐘堂が並立しているのは聊か珍しい。しかし、禰御門神社の近くに「寺ヶ市」、「坊ヶ市」の地名や薬師堂があるので、昔はさぞ名の通った寺であったであろうし、禰御門神社はその寺の鎮守社でもあったのである。
この神社は、古くから近隣の崇敬を集めていたようだが、近年は裏山を霞めて、電車や車の往来が激しく排気ガス、騒音によって神様もお困りのようだ。亦、常に宮司がいないので、四季おりおりの行事には久留美の八雲神社、子谷(おだに)宮司が出向し兼務しておられる。
では、八雲神社について少し記しておこう。『八雲』は記紀にみえる素盞鳴尊の「夜久毛立つ出雲八重垣妻ごみに、八重垣作る、其の八重垣を」の歌に詠まれている夜久毛(八雲)に因んで付けられたものである。明治時代までは牛頭天王社(こずてんのうしゃ)と言っていたのだが、慶応四年(1868年)三月二十八日の「太政官達」によって、「牛頭天王」という社号が禁止されて牛頭天王社は八雲、祇園、八坂、素盞鳴などにそれぞれ名を改称された。
八雲神社の創建はというと、七世紀初頭にまで遡る。当初は久留美村皇垣内(おがち)に創建されたようだが、現在の地に勧請されたのは六百六十余年前(子谷宮司談)とのことである。

宝暦十二年(1762)の「播磨鑑」には、禰御門神社の記述はない。よって美嚢郡誌に見える社記の梗概を記しておこう。「祭神は気長垂姫(おきながたらしひめ)を主神とし、左脇殿に天児屋根命、底筒男命、右脇殿には武雷神、菅原神を祀る」とある。
主神は、ほかでもないあの神功皇后である。神功皇后と言えば、丹生神社で既述のとおり新羅征伐に赴く時、爾保都比命が、私を祀ってくれるならば赤土(水銀朱)を与えようといい、その赤土を船体に塗って海上を渡り、新羅を攻略したと言い伝えられている。また、三韓の攻略に出発し、目的を達したことから、戦の神様であるとか、海の神様とか、 凱旋中に無事応神天皇を出産したことで安産の神としても崇められてきた。

脇殿の天児屋根命は中臣宇氏の祖先神であり、底筒男は上、中筒男と共に住吉三神と崇められる航海神であり水神で皇后の遠征に尽くした。堺の住吉大社においては神功皇后を特に祭祀する所以である。武雷神(たけみかづち)は春日大社の祭神で藤原氏(中臣)の祖先神である。菅原神は所謂天神さんで馴染みの道真公をまつる。このように見てくると菅原公を除いては殆どが皇后ゆかりの神名であることが分る。
いつの頃からそうなったかは定かではないが、皇后伝説が三木に入った時期も分らない。しかし、播磨鑑には「美壷」の話がでているので僅かではあるが想像はつく。郡誌には更に、皇后が晴間(播磨)国、津橋(明石郡上津橋)に上陸、美嚢郡月輪の郷に行幸された時、字北山と称する所に暫らく行在された。そのあとに皇后や神々を勧請し、産土(うぶすな)大神として崇め、禰御門神社と称したと、「ミカド」と「皇后」を結んだ伝承である。大塚の君が峰に皇后が立寄った時の美酒(みき)→三木。美壷(みつぼ)→美嚢という三木の地名の由来によく似た伝承と言える。
しかし航海神である皇后伝説が、いきなり内陸部の美嚢郡に生まれる訳はないから、瀬戸内から明石、草谷、押部谷へと住吉の神との関連から徐々に広まったのかもしれない。
また、郡誌は「月の輪卿より子(ね)の方に当るから子守神社と称したが、中古より禰御門神社と記した。この神社は安産の守護神として産詣者が多い」、とある。
月の輪卿というのは多くの塔頭寺院を含めた月輪寺一帯をいい、即ち三木町を指したと思われる。
畢竟その北方にあるので「子の御門」という説明は、方角としては的を射ており、現に字(あざ)北山に鎮座しているではないか。然し最初は子守神社と呼んで中古になって禰御門神社と書くようになったのであろう。このように見てくると、「大村」という地名の由来は凡そ理解できたものの、大村由己の名前の由来は依然判明しない。もともと由己が大村の地に居たかどうかもわからない。しかし大村氏という名前は別所一族の中にみられる。三木城主別所則治の子である別所主膳貞治が、三木群大村に居を構えて大村氏を称えたのがはじまりである。この地は三木城下十二か村の一部で、金剛寺道を経て榊、市場、小野、加東郡方面の重要な街道の拠点である。また、源平合戦で知られている室山にも通じる。初代城主大村主膳貞治の孫、大村九朗左衛門治吉のとき三木合戦が勃発し、この城を守備していたが、やがて天正七年大村坂の合戦で九朗左衛門治吉は討死にし、その嫡男はじめ兄弟らは三木開城のとき但馬に落ち延びている。と史書は記しているいるのだが、はたして大村氏の居城の跡が何処か未だ判明しない。課題としておこう。

軈(やがて)豊臣時代を経て徳川の治下に入る。三木合戦では共に戦ってきた加佐、大村の百姓による水利の利権争いが頻発するようになる。その争いの発端は六箇井堰の水利権にあったのである。その諍いの経緯を記した文書がある。 三木市役所土地改良課の資料提供による「六箇井堰の沿革」がそれだ。以下原文どおり。

『本井堰は、寛永五年(1628)の江戸幕府第三代将軍、徳川家光時代に杭堰工として府内地点の美嚢川右岸より取水していた。然し、当時の水不足は深刻で、約800m上流に新井堰(加佐上井堰)の建設にあたり旧井堰(六箇井堰)との間で紛争が起こり、その後宝歴五年(1755、徳川九代家重、十代家治と二代に跨る)までの実に127年間の年月を経て当時奉行所役人、小笠原右近大夫氏並びに見聞役、遠山清兵衛氏らにより旧井堰の水利権の方を重んじた採決の返答書が今もそのまま残っている。其の後、大正10年に至り杭堰をコンクリート及び石積堰に改築する。更に昭和20年の災害及び昭和55年の災害の洪水で堰体の一部が流出したり崩壊したのでコンクリートにて復旧する。昭和28年2月23日に六箇井土地改良区が設立し、当時の組合員数519名、灌漑面積113haであった。』

このように江戸時代から、つい最近に至るまで美嚢川の水利を廻って争いが絶えなかったようである。六箇井堰(大湯)の上流八百メートルに加佐上井堰(加佐湯)を敷設したことによって激しい争いがあったことは史料から或いは長老から聞くことが出来る。いつの世も百姓にとって水は命、いや命よりも大事であったのである。大正十一年に入り、六箇井堰(大湯)から美嚢川右岸沿いに疎水を送り込む湯溝の建設に着手した。その当時の経緯や難工事の状況が書かれてある記念碑が、六箇井堰右岸に建之されている。原文のまま記録したものであるが、長年水に浸かっていた部分の字は風化が激しく読み取れない字も数カ所あるが、前後の意味合いから「当て字」にしたので承知おき願いたい。当時のご苦労が偲ばれ、また、この井堰が住民の生活の安定にはかりしれない恵みを齎したことが文面から読み取れる。非常に価値ある文化遺産であり、記念碑であろう。後世に語り継ぐためにも大事にしたい。   その当事村は以下に示す。加佐、鳥町、大村、末広、平田、近藤。以上六箇村である。
        
           六 箇 井 堰 記 念 碑(原文)

     兵庫県美嚢群久留美村跡部有六井堰曰六箇井堰監
     係加佐平田大村三部落與三木所属舊加佐平田大村
     三箇町之經營焉是所以有六箇井之称也其所灌漑水
     田百余町歩地方民衆生命之泰否一繋在于斯一脈水
     利矣自往古堰壕常用木畳土俵等毎歳為修補以至今
     日然而曽數為洪水所襲招危捍亦不尠於是呼組織耕
     地整理組合仝改築石造之計大正十年十一月定議尋
     起工翌年六月竣工要費壹萬五阡圓也其間當局煮焦
     慮奔走殆忘眠食焉服労者昼夜兼行能耐寒忍水焉工
     法進歩堅牢無碍蜿蜒如長蛇貫地方一大美観而便益
     倍徒于舊矣今也養水所及永得生活之安定豈可不使
     後世児孫而識其所由哉余素有縁故仍記其梗概


      大正十一年六月上澣 竹田文栄 撰 九山弘 書

書き下し文
美嚢郡久留美村跡部に六井堰有り。六箇井堰と曰ふ。監係するは加佐、平田、大村三部落と三木所属の旧加佐、平田、大村三箇町、之を経営せり。是れ、六箇井堰の称有る所以(ゆえん)なり。其の灌漑する所の水田は百余町歩。地方民衆の泰否は一つに斯(こ)の一脈の水利に繋がる。往古より灌濠は常に木畳土俵等を用い、毎年補修を為して今日に至る。然れども曽(かつ)て數 (しばしば)洪水の襲う所となり危捍(きかん)を招くことも亦尠(すくな)からず。是に於いてや、耕地整理組合を組織し、改築石造するの計を同じくす。大正十一年十一月に議を定め、起工を翌年六月に尋ぬ。竣工の費用、壱萬五千圓なり。其の間、当局焦慮を煮やし、奔走し殆ど眠食を忘る。労に服するもの、昼夜兼行し、能(よ)く寒に耐へ、水を忍ぶ。工法の進歩、堅牢にして無碍、蜿蜒長蛇の如く地方を貫き、一大美観にして便益旧(いにしへ)に倍徒(ばいし)す。今や養水の及ぶ所、生活の安定を得、豈(あに)後世の子孫をして其の由る所を識(し)らしめざるべけんや。余、素(もと)より縁故ありて仍(しばしば)其の梗概を記す。

要約すると
六井堰は跡部にあり、六箇井堰という。関係するは加佐、平田、大村三部落と三木所属の旧加佐、平田、大村の三か町で経営する。灌漑水田は百町歩余り、地方衆民の生命の泰否はこの一脈の水利にある。往古より木畳土俵を用いた堰を毎年補修し、今日に至っている。然し洪水による危険性、被害は少なくなかった。そこで、耕地整理組合を組織し、石造製の井堰に改築することとなった。大正十年十一月決議、翌年六月起工。竣工に要する費用は壱萬五千円であった。その間、寝食も忘れ奔走し、労働者は昼夜を問わず兼行し、寒さにも耐えた。工事の進捗は堅牢にして長蛇のごとく蜿蜒と妨げられることなく捗り、完成した井堰は、地方一の美観を誇り、便益は旧来に増した。灌漑水は田畑を潤し、住民の生活の安定に寄与した。ここに後世の子孫に知らしめるべくその梗概を記す。 
「澣」とは、洗ったり濯いだりする意だが、古代中国の官吏は10日毎に休暇があり、沐浴したことに由来する。10日間。旬(じゅん)とも。この六箇井堰記念石碑の建立が6月上澣とあるから6月10日頃となる。(書き下し、訳文:長谷川) 

子供の頃の美嚢川は、香魚(アユ)や鰻が遡上するそんな清流が齎す豊かな川であった。イセコダ(伊勢講田)には漁をする川舟が浮かび、早春の頃には川のあちこちで「ながし」といわれる延縄(はえなわ)の一種で、夕方仕掛けて未明に糸をあげ鯰や鰻、ギギなどを釣り上げる漁法が行われ、生活の糧とした。流れの早い岩場には何百年の歳月をかけて出来上がった甌穴(ポットホール)といわれる壷のよう穴がそこかしこに、また、大湯の上流800mに位置する加佐上井堰跡(加佐湯)付近の与呂木、久留美を割って流れる川の岩場にもこの甌穴が見られた。昔の名残りであるのだが、現在の美嚢川においてはもはやこのような甌穴現象が起こることはないだろう。然るに美嚢川は護岸工事やら志染川上流に建設された呑吐ダムの影響或いは細川、吉川に開発されたゴルフ場の除草農薬による汚染された水が美嚢川に流れ込む、それらの環境汚染によって川の自然体系が破壊され、畢竟美嚢川は死んでしまったのである。この現実を行政も市民もしっかりと見つめる必要があろう。全国に何千という河川がある。しかし、その母なる川を守り、育んでいくのはその土地の人間である。川を生かすも殺すもそれらの人々、治自体、国の「民度」或いは「意識」如何にかかっている。折に触れ三木に帰省する機会を得るが、やはり一番に見るのは美嚢川の表情だ。

全国で一級河川の数が109本。また、兵庫県においては、一級河川は加古川、揖保川、猪名川、円山川、竹田川の5本。二級河川、準用河川に至っては合わせて650本もある。一県を例にとってみてもこれだけの本数の川が流れている。況してや全国的にみるともう無数の河川が毛細血管のように入り組み流れている。その無数の河川のなかで、一級河川109本のうち、上流に「ダムがない」のは北海道釧路川、高知四万十川、岐阜長良川の三河川のみである。裏を返せば残りの106本の一級河川上流にはダムが複数あるということだ。因みに一級河川である加古川上流(水系)に建設された九つのダム名を付記しておく。権現川━権現ダム、美嚢川支流志染川━呑吐ダム、鴨川━鴨川ダム、東條川━大川瀬ダム、仕出原川━糀屋ダム、小坂川━佐仲ダム、藤岡川━藤岡ダム、畑川━鍔市ダム、籾井川━八幡谷ダムであり、兵庫県下には大小合わせて四十九ものダムが犇めいている。既に土砂堆積による貯水量の減少により、近い将来莫大な費用をかけて浚渫(しゅんせつ)しなければならないダムが目白押しだという。欧米においては既に十年前から既存のダムを破壊し、川本来の自然の姿に戻している。これらの事象を教訓にするならば、ダム建設、不要な護岸工事によってもうこれ以上の自然環境、川の生態系を破壊してはならない。

では、「加古川」の起点はどこなのであろうか。
一般的にはあまり知られていないようだが、但馬地域と播磨地域の境界に連なる山地の北部に位置する氷上郡青垣町大名草(オナザ)が加古川の起点であり、大名草からさらに遡って標高962.8mの粟鹿山(あわがやま)が加古川の源流といえよう。つまり、涛々と流れる加古川本流の源を発する一滴(ひとしずく)の水は、ここ粟鹿山から生まれているのである。そして、粟鹿山を源として発した一滴は、やがて川となって氷上町を貫き南下する。そして、篠山川、杉原川(西脇)、野間川、東條川、万願寺川、美嚢川と幾つかの支流を吸収しながら加古川は瀬戸内海播磨灘に注ぐ幹川流路延長96kmの河川である。加古川の流域は8市17町に跨っており、その面積は1,730平方kmで兵庫県の約21%を占めている。
青垣町役場の武田信一町長が不在だったので、代わりに同姓の武田さんという女性の方に話を伺う機会を得た。夜、川べりには蛍が飛び交い、清流のせせらぎに鮖(かじか)がなき、山女、岩魚、鮎が放流され恣(ほしいまま)に泳いでいる。そんな自然環境を育んでいるのは町民であり町行政であると言っておられた。まさに、加古川の源流に生きる青垣町の人たちの民度であり自信であろうと私は理解した。三木に生まれた者たちは皆、子供の頃から美嚢川と共生してきた。海に出た「鮭」が数年かけて生まれた川に戻ってくる、そのDNAは人間も鮭も鳥も同じではなかろうか。三十五年前に三木を離れ、美嚢川の上流域神戸北区に移り住んだ私は今、自分が生まれた三木の川を遡上しつつある。

参考文献:『藤原惺窩』太田青丘著、『三木戦史』三木市役所 『日本城郭全集』人物往来社  
 松村義臣著「三木の地名探求」 和歌山県の歴史散歩(山川出版社)、「赤松円心」八瀬 久著
紀伊続風土記空海と高野山(白水社) 弘法大師入唐1200年記念 、三木史談(下田勉)     
播州太平記、「坂出市史料編」                           文:長谷川功一
                 
                              







                                                  


 







                   



                                 
                                                       
                                 
                                       

                      

 


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